【木の上の女神】前編





 見渡す限りの蒼い空、白い雲、緑の大地。

これから国を揺るがす大きな戦争が始まろうとはとても思えない、のどかな景色が延々と続いている。

ヤザ平原を抜け、小高い丘を越えるとようやく目的地が姿を現した。

それを目にしたパーシヴァルは心持ち馬の足を速める。

───湖の畔の古城、ビュッデヒュッケ城。

人が増えるにつれて増築されてはいるものの、ボロ城なのは遠目で見ても一目瞭然だ。

あげく船が地下に突っ込んだまま壁に大穴が開いているという、どう考えても防御に適しているとは言い難いこの場所が、今やゼクセン騎士団の本拠地となっている。

実際、この城が見えた途端に「帰ってきた」という気持ちになるから不思議だ。

ブラス城からここに移ってからまだそれほど長い月日は経っていないのに。

サロメの使いでゼクセに顔を出す為、ほんの数日留守にしていただけなのに。

この、ほっとする感覚は奇妙でありながらひどく心地よいものだった。

仕事とはいえ評議会の連中の陰険な顔を拝んできたから余計にそう思うのかもしれない。

だからこそ、パーシヴァルを懐柔しようという腹の内丸出しで引き止める彼らの誘いを振り切って早々に用事を済ませ、予定より半日以上早く戻ってきたのである。

 微かに口元を綻ばせ、彼は久しぶりの城へと馬を進ませた。






「あ、パーシヴァルさん! お帰りなさい!」

 城門のところで、パーシヴァルは5匹の犬を従えた少女に声をかけられた。

効果の程は置いとくとして、ぶかぶかの鎧を着て一生懸命にこの城と城主を護ろうとする姿はパーシヴァルから見ても微笑ましい。

 かつて評議会の命令でこの城を包囲した時の事が思い出される。

今はまだ幼く荒削りなものの、彼女は紛れもなくビュッデヒュッケ城の守備隊長だ。

一見無謀のようだが心意気だけでなくその潜在能力も確かなものがある。

平民出身という騎士には不利な条件の中、それこそ必死でがむしゃらに進んできた自分と重なるから余計に彼女が微笑ましく思えるのかもしれない。

全く吠えない犬達も番犬としては殆ど役に立たないが、風呂敷を下げた犬がずらりと一列に並んだ姿はそれなりに圧巻ではあった。

「ご苦労さま、セシル殿。今日も見張りですか。」

 少女に笑みを向け、馬を降りる。 

例え相手が子供でも、それなりの人物にはきちんと敬意を払うのがこの男の信条である。

パーシヴァルのファンだとかで意味もなく群がる女達に見せるものより遥かに優しい笑みを向けられる女性はそう多くない。

勿論だからと言ってセシルがそういう対象であるはずもなく、彼女が城主殿に心酔しているのは(自覚してるかどうかも怪しいが)誰が見ても明らかなので、この2人が並んでも兄妹か従兄妹といったところだ。

セシルの方も堅苦しい騎士達の中で例外的に取っ付き易いパーシヴァルを尊敬し、慕っているように見える。

いつもならここで「はい!」と元気な返事が返ってくるのだが、意外にもセシルは首を横に振った。

「いいえ、今日はちょっとだけお休みを貰うんです!」

「お休み?」

 いくら彼女でも本当に毎日朝から晩までこの場所にいる訳ではない。

そもそもハルモニア戦を踏まえた本当の見張りは要所要所できちんとゼクセンとグラスランドの戦士が交代で行っているので、本人は至極真面目でも彼女の役割はある意味ビュッデヒュッケ城の名物みたいなものだ。

どんなにここが辺境でも、少女と犬だけに国の命運を預ける程シルバーバーグの名を持つ軍師殿は愚かではない。

そんな事もあって彼女だって食事や休憩くらいはとるし、ジョアンから武術指南も受けていた。

戦闘メンバーの一人として英雄達と出掛ける事もある。

だがそれらはお休みとは言わないだろう。

心の中で首を傾げるパーシヴァルを余所に、セシルは城門に面した広場の大時計を見上げると慌てたようにまくし立てた。

「大変、もうこんな時間! それじゃパーシヴァルさん、わたしは失礼します! コロク、コーイチ、コサンジ、コゴロウ、コニー、あとはよろしくね!」

「……セシル殿?」

「そうだ、パーシヴァルさんも早く劇場に行った方がいいですよー! いい席がなくなっちゃいますからー!」

 まるで嵐のようである。

コロクの頭を撫で、ぺこりとお辞儀をして走り出してから一度振り返り。

それからまたがちゃがちゃと鎧を賑やかに響かせながら走り去るセシルの背は詳しく説明を聞く暇もなく、あっという間に小さくなった。

「クゥ〜ン……」

「……………」

 足元で頼りなげに鳴く犬になんとも言えない哀愁が漂う。

少女の勢いに思わず立ち尽くしてしまったパーシヴァルだが、いつまでもここにいても仕方ない。

まぁ…犬達は放っておいても大丈夫だろう。

きちんと見張りが別にいて良かったと心底思うパーシヴァルは間違ってはいまい。

(劇場…?)

 去り際のセシルの言葉を考えると、何か珍しい催しでもあるのだろうか。

あの言い方からすると、セシル自身が出演するという感じでもないようだが。

よく見ればいつもならこの時間は大勢の人々で賑わっているはずの広場も閑散としていた。

ぽつりぽつりと見える住人達もどこか急ぎ足で去っていく。

これは余程の事なのかもしれない。

(ふむ……)

 戦の合間を縫ってこの城の劇場で行われる演劇はかなりの評判だと聞いている。

一部妙に演技慣れしている胡散臭い者もいるが、この城の殆どの人間は役者としては素人だ。

それでも戦士達の滅多に見られない姿が見られると、城下町の人々にウケているらしい。 

冷静に考えればこの大変な時期にという気もしないでもないが、その収入が軍費に回されると言われればそう否定できるものでもなかった。

暗くなりがちな最前線基地を盛り上げる意味でもこの施設は役立っているのだろう。

実際彼自身も請われて何度か出演した覚えがあるが───狼少年の羊役だけは、どんなに頼まれても二度とする気はない。

奥様方の間で「可愛い」と好評だったらしいが、あれは26年間生きてきた中で消し去りたい過去のワースト5に入ると確信している。

 一瞬、苦い思い出が蘇ってパーシヴァルは眉をしかめた。

整った顔立ちに加えて何事もそつなくこなしてしまうので誤解されやすいパーシヴァルだが、もともと必要以上に人目に晒されるのはそんなに好きではないのだ。

観る分には一向に構わないが、できるものなら今後もなるべく出演依頼がくる事がないのを密かに望んでいたりする。

単純に気恥ずかしいからというよりも演技の練習に当てる時間があれば己の剣術や馬術を磨く方がましだと思う辺り、生粋の戦士と言えるのかもしれない。

 とにかく。

劇の配役は開演の数日前に劇場支配人ナディールと炎の英雄ヒューゴの判断で発表されるので、しばらくこの城を離れていたパーシヴァルには何の事やら予想もできない。

考えるだけ無駄だし、どちらにせよ今は馬を馬小屋に預けて騎士団長とサロメに帰還の報告をするのが先決だ。

もし時間に余裕があるようなら久しぶりに劇場を覗いてみるのも悪くないと結論付けると、パーシヴァルは愛馬の手綱をとって颯爽と歩き出した。







「あれは…」

 防具屋の裏手にある馬小屋へと続く道に入ったところで、パーシヴァルは目を細めた。

彼のよく知る少年の後姿がそこにあったからだ。

少年はパーシヴァルに気付く事もなく、きょろきょろと周りを見渡している。

この辺りはまだ開発途中で、道が辛うじて作られているものの周囲は原生林とさほど変わりはない。

少年の仕事柄主人の馬を世話する事も多いので彼がここを通る事自体はそう珍しくもないのだが、どうも今日は様子が異なるようだ。

そして、この気配────。

「ルイス! どうした、何かあったのか?」

「パーシヴァル様! お早かったんですね!」

 声を掛けられた少年が慌てて振り返る。

こちらに駆け寄ってきたルイスは一通り挨拶を済ませると、いきなり本題に入った。

「パーシヴァル様、早速で申し訳ないんですが、クリス様をご存知ないですか?」

 余程探し回ったのか。

息を切らせて放たれた言葉に、内心の驚きを悟られないようにパーシヴァルは努めて冷静に返す。

「生憎おれも今帰ったばかりでお見掛けしてしてない。おれの方が君に聞こうと思っていたんだが───クリス様がどうかなされたのか?」

「ええ、ちょっと…こっちに来られたのを見た、という話を聞いたんですが…」

 何気なく問われた質問に、普段は闊達な少年が視線を逸らして言いよどむ。

本当に失踪したとか、何か大変な問題が起きたのならそんな言い方はしないだろう。

そもそも騎士団全体でもっと大騒ぎになってるはずだ。

つまり、これは彼の主人個人の名誉に関わるという事か。

───名誉。

その時、パーシヴァルの頭に閃くものがあった。

セシルの様子。劇場。行方不明。

確か、セシルはトーマスやパーシヴァルに対するのとは別の次元である人物をえらく尊敬していた。

「───劇場の方じゃないのか? なにやら評判の催しがあるようだが。」

「それなら探す必要もないんですけどね……あ!!」

 ずばり、的中したらしい。

苦笑を浮かべるパーシヴァルに、ルイスは観念したように溜息をついた。

「流石ですね、パーシヴァル様。とにかく、ぼくはもうちょっと探してみます。もしクリス様をお見掛けしたら、すぐに劇場の方へ向かうよう伝言をお願いできますか?」

「ああ、分かった。」

「すみません。それでは失礼します!」

 一礼し、ばたばたと騎士見習いの少年が走り去る。

吹き抜けた風がざわざわと周囲の木々を揺らした。

「………………さて。」

 後に残されたパーシヴァルはひとつ息を吐くと。

愛馬の鬣を撫でてその手綱を手近な枝に括りつけ、静かに声を放った。




「───それで、いつまでそこにおられるつもりですか、クリス様?」




 がさり、と背後の木が不自然な音を立てる。

「………………」

「………………」

 暫しの沈黙がその場を支配した。

「…………気付いてたのか…………」

 だが、とうとう諦めたのか。

やがて聞き慣れた声がパーシヴァルの頭上から降ってきた。

ゼクセンの人間、それも誉れ高き6騎士の一員である彼がこの声を聞き違えるはずもない。

女神のようだと評される、凛としたよく通る声。

しかしそれも今はやけに力がなかった。

「これでも騎士の端くれですからね。隠れていても人の気配くらいは分かります。最初はまさか、クリス様だとは思いもしませんでしたが。」

 何者かとは思ったが、殺気や敵意といったものも感じなかったので特に警戒はしなかった。

だから様子をみるつもりで平然とルイスに声をかけたのである。

普通『銀の乙女』が木登りなどするとはパーシヴァルでなくても誰も思うまい。

見つける事のできなかったルイスを責めるのは酷というものだ。

 パーシヴァルが声の降ってきた方を見上げると、案の定そこにはゼクセン連邦騎士団団長クリス・ライトフェローの姿があった。

パーシヴァルの身長に子供の身長を足したくらいの高さの場所で、太い木の枝に身体全体でしがみつくようにしている若い女性の姿が。

「クリス様が木に登れたとは存じませんでしたよ。」

「い、いや、わたしも咄嗟に登れてしまったんで、意外だったんだが…」

「それはそれは…」

 地位のあるいい大人が子供のように木登りなどしているのを見られたのが恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして小動物のように必死に枝にしがみつくクリスの姿に、パーシヴァルはとうとう噴き出してしまった。

まったく。我らが団長殿は、時々無自覚に可愛らしい事をしでかしてくれる。

「パーシヴァル!!」

 からかわれたのを自覚してますます顔を赤くするクリスに、パーシヴァルは宥めるような笑みを向けた。

「取り敢えず、お話は後で伺いましょう。お一人で下りれますか?」

「だ…大丈夫…だと思う…」

 パーシヴァルの言葉に、クリスが一瞬声を詰まらせる。

今の彼女はいつもの鎧姿ではなく、上着にズボンといった軽装だ。長い銀の髪も下ろしている。

おそらく問題の『劇』があるから着脱に時間のかかる鎧を着けていなかったのだろう。

いくら腕力と運動神経に自信のある彼女とてあの重装備だったら木登りは無理だったに違いない。

 しかし。木登りというのは、簡単なようでいて登るよりも下りる方が難しいのである。

田舎育ちのパーシヴァルなどは慣れているので全く問題ないが、彼にしても高い木に登ったまま下りれなくなった子供を何度助けたか分からない。

特に高所恐怖症でなくても、下から見るのと上から見下ろすのとでは高さの感じ方はまるで違う。

慣れない者はどうしても足が竦んでしまうのだ。

この木はそう高くはないが、それでも生まれて初めての木登りとなると────

「…わっ!」

 枝の上でおそるおそる足をずらしたクリスの身体が大きく揺れる。

危うく真っ逆さまに落ちかけて、ぎりぎりのところで彼女は枝に踏みとどまった。

「クリス様!!」

 パーシヴァルは判断した。ここは最も安全な策をとった方が自分の心臓の為にもいい。

クリスの真下に駆け寄ると、腕を広げる。

「わたしが受け止めますから、飛び下りて下さい。それが一番安全です。」

「な、何を……っ」

 当然の如く、クリスが驚きで目を丸くする。

彼女にしてみれば己の蒔いた種でそこまで甘えるのは気が引けるのだろう。

しかもパーシヴァルが受け止めるという事は、男の腕に自分から飛び込むという事でもある。

「大丈夫です。わたしの命に代えてもきちんと受け止めてみせますから。」

「そうじゃなくて!! わ、わたしは重いし、パーシヴァルに迷惑を掛ける訳には…」

 彼女の顔が赤いのは、羞恥のせいだ。

────少しは自分を男として意識していると、期待してもいいのだろうか。

騎士団という男社会で立派に勤めを果たしていても、ここで無意識に体重の話が出る辺り、やはりこの方も妙齢の女性なのだと思えて。

そんな珍しい姿を見れたという事さえ嬉しく感じる自分が滑稽ですらあった。

パーシヴァルは彼女がこれ以上躊躇しないよう、敢えてなんでもないように言い放った。

「クリス様など軽いものです。もう充分巻き込まれていますので、お気になさらずに。それともわたしが直接そこまで行って、土嚢のように肩に担いで下りた方がよろしいですか。どうせならそちらから飛び降りて頂いた方がわたしとしても楽なんですけどね。」

「……………」

 我ながら、よく口が回る。

こうまで言われて反論できるほどクリスの口が達者でないのを確信しての事である。

「わ、わかった…どうか頼む…パーシヴァル。」

 ようやく一大決心したかのように、紫水晶の目がパーシヴァルに注がれた。

そんな彼女に、にこりと微笑んで頷いてみせる。

「お任せ下さい。」

 更に大きく腕を広げた。






 そして。

きらりと太陽の光が木の葉に反射したかと思うと、どさりと両腕に温かな重みが掛かった。

本当に、普段重い鎧を着けて剣を振り回しているとは思えないくらい細い腰。

流石に戦士としての筋肉もついているがそれ以上に柔らかい、女性特有の身体つき。

同時に銀の糸がふわりと舞うようにパーシヴァルの視界に入る。

まるで幻想のように。

ふわり。

ふわりと。

微かに花の香が漂った。












アホ程長くなったので前後編に分けました。
更に長い後編はこちらからどうぞ