【白銀の砦1】





「たあっ!」

「はっ!」

 バスバスバスドスッ。

ゼクセン連邦とグラスランドのちょうど中間に位置する、湖の古城ビュッデヒュッケ城。

雲ひとつない青空の下、その城の中庭に当たる場所でうら若い女性の声が響いた。

同時に繰り出されるのは重い打撃音と鎧が動く度に奏でる金属音。

本来、ここは人々に忘れ去られた長閑な田舎城である。

よってこのような音は普通に考えれば不似合いでしかないのだが、今この城に住む者達でそれを不思議だと思うような人間はいない。

何故なら誰もがこの声の主を見知っているからだ。






「───よし、今日はここまでにしよう。」

「はぁ、はぁ、はぁ…」

 この城で武術指南を担当する青年の言葉に、クリス・ライトフェローは大きく息をついた。

ガントレットを外した手で額に浮かんだ汗を乱暴に拭うと、防御用の綿袋を己の身体から外しているジョアンに向かい合う。

「有難う、ジョアン。助かった。」

「いんや。これがおれの仕事だからな。」

 巷で女神と評される笑みと直々のお礼の言葉。

これがゼクセン騎士なら感動しまくるだろうが、青年は安眠効果のあるハーブの葉を口に咥えたまま苦笑を浮かべるに留まった。

何せ、ジョアンが武術指南の専門家とはいえ相手は騎士団長。

疾風の騎士、烈火の騎士と並びゼクセンでも群を抜いた剣の腕をもつクリスである。

徒手空拳を得意とするジョアンとは根本的に戦い方が違うのだ。

よってここで彼が教える事ができるのはバリングなどに代表される体捌きや、筋力訓練をメインとしたものだけである。

つまり潜在能力として本来ある力を引き出す手助けをしているに過ぎない。

そしてここでもクリスの戦士としての能力は存分に発揮されていた。

ダメージを吸収する綿袋や砂袋はここ数日続く彼女の訓練のおかげで既にぼろぼろで、明日には完全に使い物にならなくなるだろう。

教えがいがあるのは教師としても嬉しいが、剣なしでここまでとは末恐ろしいとも言える。

しかし。




「お前さん、何をそんなに焦ってるんだ。」

 ジョアンの何気ない一言に、クリスの眉がぴくりと動いた。

「……わたしは別に……。書類仕事が続いていたから、体がなまってしまってはいけないと思っただけだ。」

「ま、本人がそう言うならいいけどな。」

 すぐに反応できずにあからさまな間を空けてしまったクリスに対し、ジョアンはあっさりと引き下がると訓練に使った道具を片付け始める。

この辺りの無頓着さがあくまでマイペースな彼らしくもあり、クリスにとっては有難い存在でもあった。

何かとクリスを過保護したがる騎士団の連中ならもっと根掘り葉掘り聞こうとするか、心配そうにこちらの様子を伺うかのどちらかだろう。

そんな事を思って苦笑しつつ、クリスも武術指南所の壁に立て掛けてあった使い慣れた長剣を手に取った。




(ふう……)

 未だ汗の滲んだ銀の髪を無造作に払い、なんとなく頭上を見上げる。

そこにあるのは何処までも青い、透き通るような空。

───それはこの右手に宿る、真の水の紋章を連想させる。

継承してからまだ一度もその力を発動させていないのでいまいち実感は湧かないが、確かにここにあるもの。

クリスは剣を腰のベルトに繋ぎ、手袋とガントレットを装備し直すとその手を無意識に握り締めた。




(……焦ってる、か……)

 そうかもしれない。

剣術と同じで体術だって雑念があれば隙が生まれ、無駄な動きが出る。

そのつもりはなくとも、実際にクリスの訓練に付き合っているジョアンが気付いたのも当然と言えば当然だろう。

書類仕事が続いていたのは事実だし、体がなまってしまうのを避けたかったのも本当だが、それだけではないのをクリス自身認めずにはいられなかった。




 炎の英雄。ハルモニア。仮面の神官将。

ゼクセンとグラスランドを繋ぐ、炎の運び手。本拠地。

行方不明だった父の死と、真の紋章の継承。

それら全ての出来事が突然だった。

納得はした。

覚悟もした。

だけど本当にこれで良かったのだろうか、と思う自分がまだ何処かにいる。




 そして、あの男────

ふいにクリスの脳裏に、金髪の工作員の姿が浮かんだ。




(ってあんな男の事なんか気にしてどうするんだ!)

 慌てて首をぶんぶんと左右に振って飄々とした笑顔を頭から追い払う。

クリスの突飛な行動に気付いたジョアンが怪訝そうな顔をちらりとこちらに向けたが、それには何でもないと手を振り、「それじゃわたしは行くから」と軽く会釈を残して武術指南所の隣──中庭の中央、城門へと続く階段に足をかける。




───何の脈略もなくクリスの前に現れ、当然のように隣に居座って共に旅をした男がいた。

戦士としての腕と知識は確かだったが、暇さえあればクリスにちょっかいを出し、妻帯者だと言いながらもふざけて口説き、その度にクリスの制裁を受けていたお調子者の中年男が。




(だいたい、あいつは出て行ったんだ!)

 そう。その男の姿は既にこの城から消えていた。

誰も…おそらく最も彼と関わりがあったクリスですら気が付かないうちに、一言の挨拶もなく。

分かっている。

彼はチシャの村でハルモニアのスパイだと自ら告白したのだ。

ならばいつまでも敵地であるここにいるはずがない。

クリスの隣にいる必要もない。

寧ろ、別れるのが前提だったからこそ敢えてクリスに身分を明かしたのだとも言える。

お互いの立場からすれば、おそらくもう二度と会う事はないだろう。




 だけど。彼と出会ってからの数ヶ月間、誰よりもクリスの心情を察し。

自分一人で考え込みがちなクリスをさり気なく支え励ましてくれたのも、間違いなく彼だった。

ゼクセンの騎士団長ではない、ただのクリスとして接してくれた数少ない人間─────。






 と。

唐突に湧き上がったざわざわとした人の気配と慌しい足音、城への知らせを叫ぶ人々の声が階段の上方から届き、クリスは思考の海に沈みそうになるのを中断させた。

「なんだぁ?」

 クリスと同じように階段を仰ぎ見たジョアンが呟く。

その声に心持ち不機嫌そうな色が混じっているのは、これからやっと昼寝ができると寝転んだばかりだったからだろう。

「分からない、だが何かが…」

 律儀に背後に返事を返しながらも、クリスは足早に階段を駆け上った。

この類の人々のざわめきは、決して良い種類のものではない。

驚きと不安が混ざり合ったような空気。

つい先日もこれと似たような事があった。

それはルビークの危機を知らせにきた若者のものだったが。




「良かったクリスさん、まだここにいたんですね!!」

 階段を上りきったところで、門前から走り寄ってきたセシルに声を掛けられた。

父親の形見だという自分の身体より大きな鎧をがちゃがちゃと鳴らしてやってきたビュッデヒュッケ城守備隊長の顔は、緊張のせいか少し紅潮している。

「セシル! 一体何が…」

「お城にやってきた女の子が、倒れたんです! 傷だらけで、それでクリスさんに会いたいって!」

「…分かった、すぐ行く!」

 漠然と女の子と言われても心当たりはない。

いきなり自分の名前が出た事に驚きながらも、クリスはセシルに促されるまま一緒に城門へと走った。

目的の場所は既に20人ほどの町人や見張りの兵士で人だかりになっており、遠目にもすぐに分かる。

クリスがやって来たのに気付くと、彼らは波が引くように道を開けてクリスを通した。

小走りに人垣を抜けると同時に、ゼクセン騎士の一人に抱えられるようにして地面に横たわっている小柄な人影が目に飛び込む。

「大丈夫か!? しっかりしろ!」

 思わず駆け寄り、その傍らに膝をつきながらクリスはその人物の顔を覗き込んだ。

返事はない。胸が微かに上下しているので息がある事は辛うじて見て取れるが、クリスがここに辿り着く前に意識を失ったようだった。

「トウタ先生に連絡は!?」

「他の者が呼びに行っています。こちらに向かっているところかと。担架も手配してあります。」

 クリスより10は年上であろう騎士の言葉に頷き、改めてそこに横たわる人物に目を向ける。




 やはりクリスの方に見覚えはないが、なるほど若い娘だった。年の頃は15、16くらいか。

肩より少し長いくらいで切り揃えられた黒髪が良く似合う整った顔立ちの少女だ。おそらくゼクセン人だろう。

着ている服も華美ではないが上等な生地であつらえてあり、いかにも貴族の娘が好みそうなデザインである。

しかし今、その服はところどころ紅いもので染まり、引っ掛けたような細かな裂け目がいくつもあった。

誰か水の紋章術に長けた者が応急手当をしたのだろう、出血は止まっていたがそこから覗く白い肌と傷痕が痛々しい。

そして横たわる少女のすぐ隣には、未だ荒く息を切らしている栗毛の馬が主人を守るように寄り添っていた。

その馬の足や腹にも無数の傷痕があり、彼女達がここに辿り着くまでどれだけ危険をかいくぐってきたのかを物語っている。




「この人、門の前までこのお馬さんに乗ってきたんですけど、わたしが声を掛ける前に馬から落ちちゃったんです。ふらふらって。それで慌てて駆け寄ったら、『どうか、クリス様にお目通りを』って言って、そのまま…」
 
 クリスの隣で同じように膝をついたセシルが泣きそうな顔で説明してくれたが、それだけではこの少女の素性も目的も分からない。

それでもはっきりしている事はあった。

「この辺りの魔物は減ったとはいえ、まだまだ安全とは言えない。ろくに武器も扱えない子供が一人で平原を横断してこの城に来るには、余程の理由が必要だろうな。」

 いつの間にかクリスの背後に立っていたジョアンの言葉は、この場にいた全員の考えと一致していた。




 少し見れば分かる。少女の傷はこの周辺に出没するモンスターの爪や牙によるものだ。

一応少女の腰には長いスカートに不似合いな護身用の短剣がぶら下がっていたが、どう贔屓目に見てもこの貴族風の少女が剣の扱いに慣れているとは思えなかった。

それは彼女が受けた無数の傷の位置からも予想できる。いっそ命が残っていたのが不思議と言えるものだ。

 そもそも少しでも知識と経験があれば、こんな格好で馬に乗り、短剣のみを携えてモンスターの徘徊する土地を横断しようとはしなかったに違いない。

クリスのように戦いに慣れた者でも理由もなく城壁の外を一人で出歩いたりはしない。

必ずしもモンスターに遭遇すると決まっている訳ではないが、腕に余程の自信がない限り、街から街、村から村へと移動する際にはいつ何があっても大丈夫なよう万全の装備で何人もの仲間とパーティを組んで行動するのがこの世界の常識なのだ。




「…わたしに何を…?」 

 下手に動かすのも躊躇われ、クリスはそっと横たわる少女の黒髪を撫でた。

本当ならつやつやと輝いていただろう柔らかな髪は、今は泥と汗で汚れている。

こんな姿にまでなって、少女が自分を訪ねてきたという事実が胸を締め付けた。




───今の自分は、それだけの価値がある人間なんだろうか。




 ゼクセン全土でクリスが英雄のように扱われているのは、クリス本人も知っている。

実際は評議会の連中が裏で暗躍するのに都合がいい、お飾りとして自分が祀り上げられているだけだという事も知っている。

だが、そんな偶像のクリスを本当に信望し女神のように思っている人々がいるのも事実なのだ。

『銀の乙女』『白き英雄』であり、史上最年少のゼクセン連邦騎士団長であり、今やゼクセン側の最高責任者として炎の英雄と共に炎の運び手を率いるクリス・ライトフェローにできない事は何もないと、無邪気にも信じている者が。

この少女が何処から来た何者なのかは分からないが、彼女もそんな一人だとしたら。




「……っ」

 髪を撫でる感覚が彼女を呼び覚ましたのか、ふいに少女が瞼をそろそろと開いた。

薄い鳶色の瞳が焦点の定まらない様子で辺りを窺う。

「気が付いたのか!?」

 少女の視線に気付いたクリスの声に、少女はようやく自分が何処にいるのか思い出したらしい。

そのまま苦しげに唇を動かした。

「……クリ…ス…さま……?」

「今は無理に喋らない方がいい、後でちゃんと話を聞くから───」

 しかし少女は改めてクリスの姿を視界に認めると、切羽詰ったようにクリスの腕にしがみ付いた。

たった今まで意識もなかったのに、この小さな身体の何処にそんな力が残っていたのかと思わせる力をガントレット越しに感じ、クリスは息を呑む。




「わたしの、名は、リディア・ノーゼンハイムです。お願いです、クリス様。姉を、ローザを、救って───」




 掠れた声で途切れ途切れに言葉を紡ぎ、力尽きたように少女が再び意識を手放したのと、「トウタ先生が来ました!」というセシルの声がビュッデヒュッケ城の中庭に響いたのはほぼ同時であった。




















あわわ。とうとう見切り発車で初の長編連載をスタートさせてしまいました。
しかも梨栗予定のハズなのに現時点でナッシュはいません(笑)。
気長に、完結までお付き合い下さると嬉しいです…。


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