【逆転乙女】前編





 4月21日 午後2時40分 成歩堂法律事務所前。



(はぁ…やっと着いた。疲れた…)

 一人仕事場の扉の前に立つ弁護士・成歩堂龍一は、42.195キロを完走したマラソン選手の如く疲れ果てていた。

トレードマークの青いスーツは皺になっており、ギザギザ頭もどことなく垂れ下がっているように見える。

 というのも今回の裁判は対決相手こそあの幼馴染みの敏腕検事ではなかったものの、いつにも増して崖っぷちで。

実際依頼人は無実でありそれは立証された訳だが、その証拠品探しにこの2日ばかり殆ど一睡もせずに大量の資料ファイルと格闘するはめになった為だ。

 それは今は隣にいない成歩堂の助手・綾里真宵にしても殆ど同じである。

当然ながら未成年の少女を夜中まで働かせる(曲がりなりにも狭い部屋で男女二人っきりではあるが、そういう点ではどちらも全く危惧していない。それがいいのか悪いのかは微妙なところだ)訳にもいかず、何度も「ぼく一人で何とか探すから」とは言ったのだが、上司命令を綺麗さっぱり無視した彼女の協力がなければもっと時間を要しただろう。

こういう押しの強さと強情さは、師匠の妹らしいと言うべきか。

 とにかくこうして時間ギリギリで決定的な証拠を発見したが、さすがに今日の午前中から始まった法廷は寝不足でふらふらの真宵を連れて行くのも躊躇われ、後は自分だけでどうにかなるからと説得して彼女にはゆっくり休んで貰った。

勿論、結果───勝訴が出てすぐに電話で知らせてある。

依頼人もとても感謝してくれ、また後日改めて礼を言いに来ると言っていたから真宵も喜ぶだろう。

これでこそ努力が報われたというものだ。

(ていうか真宵ちゃんがいなくて裁判に勝てなかったら、後で何て言われるか分かったものじゃないしな…)

 取り敢えずは所長の面目死守といったところか。

確かに真宵やその従姉妹の春美(というより彼女達に憑依した師匠)には何度も助けられているが、男としていつまでも彼女達がいないとダメだとは思われたくないのも本心である。

以前「真宵の『下で』働いていたのだろう」と彼女の叔母に言われた時にはどうしようかと思ったものだ。

そんな事を思い出して苦笑しつつ、ドアの取っ手に手を掛ける。

(…あれ?)

 留守番の真宵がいるのだから、鍵がかかってないのは問題ない。

午前中は休業扱いにして彼女も事務所の簡易ベッドで休んでいたはずだが、さっき電話で話したのだから今はもう起きているはずだ。

だけどこのナンとも言えない違和感…というか胸騒ぎはなんだろう。

この感覚。

何処かで感じた雰囲気。

敢えて言うなら、関わりを避けたいような逃げたいような、ざわざわする空気。

「ただいま。真宵ちゃ────」

 首を傾げながら、がちゃりと扉を開ける。




「アンタ、遅いじゃないの!!」




 ばたん。

瞬間、成歩堂は再び扉を閉めた。




「さてと。調査にでも行こうかな…」

 くるりと事務所に背中を向け、独り言を呟く。

「なるほどくん! あたしを置いて逃げるなんて卑怯だよ!!」

「ちょっと! ヒトの顔見るなりどういう意味さ!!」 

 しかし逃亡叶わず、事務所から飛び出してきた真宵と問題の人物によってあっけなく成歩堂は捕獲されてしまった。

「…ははは…やっぱりダメですか…」

 両腕を抱えられたままずるずると事務所の中央まで引きずり込まれ、力なく笑う。

もう笑うしかない。笑って現実逃避したい。




「まったく苦労してここを探し出したってのにアンタって男は失礼にもほどがあるよそんなんだから今時の若いもんはダメなんだからねあたしが若い頃はそりゃあもう礼儀に厳しかったもんさあれは30年前の寒い冬の日の事だったよ────」




───何の因果か、殺人事件で遭遇する度にいいかげんな証言と爆弾発言で法廷を混乱の渦に巻き込んでくれる問題人物。

登場するなりマシンガントークをぶちかますオバチャンこと大場カヲル(年齢不詳)に関わると、ろくな事にならないのは分かり切っているのだから。








「…で、ぼくに何の用でしょうか。てっきり宇宙に帰ったとばかり思っていたんですが。」

「そうそう、なるほどくんが事務所に帰ってくるまで秘密とか言って、あたしには教えてくれなかったんだよね。やっぱり宇宙ってアンドロメダとかかなぁ。」

 ひとしきり喚かせた(聞き流した)後、成歩堂は応接ソファーに向かい合って座るオバチャンにようやく質問を挟んだ。

先日からの寝不足と疲れに加え、嫌な予感でくらくらする頭を必死で宥めながらの言葉である。  

状況から察するに、どうやら真宵が成歩堂からの電話を受けて間もなく事務所に押し掛けてきたという事らしいが、この人を野放しにしておいたら冗談抜きで危険だ。

ここはさっさと用件を聞き出してあしらって丁重にお帰り願った方が被害は最小限で済む…と信じたい。

 ちゃっかり成歩堂の隣に座って会話に参加している真宵の場合、一人で彼女の相手をするのは絶対にごめんだが、二人なら怖いもの見たさが勝るといった感じらしい。

その気持ちもなんとなく分からないでもないが、どっちにせよこの予想外の台風で一番被害を被るのは成歩堂だという事が決定しているのは間違いないだろう。

「アンタ達、このあたしを何だと思ってるんだい! あんなバカみたいな仕事、いつまでもやってる訳ないだろう!」 

「………その割に、手に持ってる光線銃はなんですか?」

「これは気に入ったから辞める前に貰っといたんだよ。文句あるかい!?」

「………………」

 カタカタカタカタカタカタカタ。

妙に懐かしく感じる身体に悪そうな光線を向けられ、それでなくても疲れているのに更にどっと疲れを覚える成歩堂である。

彼女の今の服装はこの前の事件の時に着ていた子供向け特撮用宇宙服ではなく、最初に見た警備員の服のようだが(これもかつての仕事場からかっぱらったに一票)、やはりこの人は何処か遠くの宇宙に旅に出た方が世の平和の為にはいいのではなかろうか。

口先まで出掛かった思考を飲み込み、成歩堂はひとつ咳払いをした。

「……話を元に戻しましょう。それで、ご用件は?」

「それだよ!!」

 だん。

オバチャンの拳がテーブルに叩きつけられた。

既にお茶を飲み干した湯呑み(請求されて真宵が出したらしい)が振動で揺れる。




「あたし、本気でミッチャンのボディーガードをやろうと思ってるんだよ!!!」




「「……はぁ?」」

 成歩堂と真宵の声が見事にハモった。

「ミッチャン…って、あの、御剣の事ですよね?」

 おそるおそる訊ねる成歩堂。

その声色にはどことなく同情のようなものが混じっている。

御剣玲侍───検察庁きっての敏腕検事にして成歩堂の幼馴染み兼友人である男。

いつだったか法廷で見た、彼のひきつったような顔が脳裏に浮かんだ。

完璧主義でどんな時でも己のスタイルを崩さないあの男にあんな顔をさせられる人物はそうはいないだろう。

彼に『ミッチャン』という素晴らしい渾名を命名した、この人を除いては。

「他に誰がいるってんだい。そうだよあのヒラヒラスカーフがキュートな美形だよ!!」

「うわぁ、まだ諦めてなかったんだ…」

 以前、ボディーガードになりたいと検察庁まで押しかけた話は成歩堂達もオバチャン本人から聞いた事がある。

ぽつりと呟く真宵を無視し、オバチャンは恋する乙女のように遠くを見た。

バックはピンク色、薔薇の花まで背負っているような気がする。

但しドライフラワーだが。

「フン、一度断られたからって諦められるもんかい。どうせ警備するならイイ男を護る方が楽しいに決まってるじゃないか。イブクロちゃんもイサムちゃんも死んで、あたしは誰を心の支えにすればいいのか悩んだのさ。そしてあたしにはやっぱりミッチャンしかいないんだと本当の愛に目覚めたんだよ!!」

「……はぁ……熱烈だねぇ……」

「とことん一方通行だけどね…」

 胸の前で両手を組み合わせて瞳の中に大昔の少女漫画のような星を映すオバチャンの姿に、半ば感心したように真宵が溜息をつく。

それに小さくツッコミを返す成歩堂だが、それ以上自分にはコメントのしようがないのも事実である。

御剣には悪いが、所詮は他人事。

いくら奴の友人とはいえ成歩堂には何の関係もない筈だ。…その、筈なのだが。

なんだか嫌な予感がするのは気のせいだと思いたい。

「…オバチャンの気持ちはよく分かりました。だったらあいつの所に直接行けばいいでしょう。どうしてここに来たんですか?」

 そう。まだそれが分からない。

「だからそれだよ!! あたしだってこんなトコに来る前に真っ先にミッチャンのトコに行ったさ!!」

 だん。

再びテーブルがオバチャンの拳によって唸る。

そして目の前に突きつけられたのは4つに折り畳まれた紙切れ。

こんなトコで悪かったな、と心の中で呟きつつも成歩堂は取り敢えずそれを受け取った。

「…なんですか、これ?」

「ミッチャンに書いて貰った証文だよ。」

「しょ…証文?」

「え、なになに?」

 興味津々で肩越しに覗き込む少女共々、いかにも適当に書きましたといった感じのレポート用紙を開く。




成歩堂龍一の弁護士バッジを譲り受けて来たら、オバチャンをボディーガードとして認める。───御剣玲侍


 

「なんじゃこりゃあぁぁぁぁぁ!!!!」

 思わずレポート用紙をぐしゃりと握り締め、まるで1970年代のTVドラマのような台詞を叫ぶ成歩堂。

成歩堂にとって、この胸に光る弁護士バッジはアイデンティティ。

水戸黄門にとっての印籠。仮面ライダーのライダーベルト(微妙に違う)。

とにかくそれくらいの価値があり、命の次に大切なものだ(猿に奪われた事はあるが)。

なのに、なんだって己の知らぬ所で取引材料になぞされねばならないのか。

「そんなワケだから、おくれv」

「ダメに決まってるでしょう!!!」

 語尾にハートマークを付けられたって(しかも相手はオバチャンだ)、「はい、どうぞ」なんて口が裂けても言えない。

肩で息をする成歩堂に対し、来訪の目的を明かしたオバチャンは至って平然としたものだ。

彼女は胡散臭いアメリカ人のように首を竦めてみせた。

「アンタがそう言っても、ミッチャンと約束しちゃったからねぇ。その小汚いバッジを貰わない事には帰るに帰れないんだよ。」

「こ、小汚くなんかないぞ、毎日ワックスで磨いてるんだから!! 弁護士バッジ磨きコンテストがあれば絶対ぼくが優勝する自信がある!!」

「なるほどくん、なるほどくん。論点がズレてるよ。ていうかそんな事してたんだ…」

 想像したのか、「それもなんかヤダ…」と成歩堂との距離を微妙に空ける真宵のツッコミも尤もだが、当の成歩堂は真剣だ。

「フン、いい年した男がバッジのひとつやふたつでケチケチ言うんじゃないよ。諦めが悪いね。」

「異議あり!! だからそういう問題じゃないでしょう!!!」

 いつの間にやら成歩堂とオバチャンのテンションが逆転している。

と。ここに来てようやく、成歩堂は問題の本当の原因に思い当たった。

あまりに動揺してしまったが為に、一瞬すとんと頭から抜け落ちてしまったらしい。

慌しくスーツの内ポケットに手をやると、取り出した携帯電話をプッシュする。

「なるほどくん?」

「御剣を問い詰める。」

 真宵の問うような呼びかけに、簡潔に答える。

携帯電話を耳に充てると、メモリーに登録してあった番号は難なく相手を呼び出した。

『───はい。』

「御剣!!」




ぶちっ。ツーツーツー………




「……あんの野郎───────!!!!」


 

 昔から愛想がなくて高飛車で傲慢で何気に3高で顔が良くて女にモテて厭味な男だったが、今ほど奴を憎いと思った事はない。

鬼でも見るような目で成歩堂を凝視する真宵を敢えて無視し、光速で携帯のリダイヤルボタンを押す。

さっきより5回分ほど多くコール音を鳴らしたそれは、それでもどうにか繋がった。

『───なんだ。』

「お前なぁ、人を巻き込んでおいてその態度はなんだよ!! フザケた証文なんか書きやがって!!」

『……ああ、あの件か。』

「他に何があるって言うんだ!! オバチャン、本当にウチの事務所に来ちゃったじゃないか!! どうしてくれるんだよ!?」

『すまない。今、手が離せないのだ。信号が変わる。』

「お、おい、御剣!?」

 言われてみれば、電波が悪いのか雑音が入っている。

そして視覚障害者用信号と思われる聞き慣れたメロディが微かに電話の向こうから聞こえてきた。

どうやら御剣は車の運転中らしい。

『とにかく、暫く頼む。悪いようにはしない。』

「充分悪いようになってるよ!!」

『成歩堂。信じているぞ。』

「殺人犯にされそうになったお前を弁護してやった時にも言わなかったくせにこういう時だけ言うな!! すっげー嘘臭い!!」

『そういう事だから切る。』

「だから待てこの万年自己完結男─────!!!」

 成歩堂の叫びも空しく、またしても携帯が沈黙する。

慌てて3度目のコールをするも。




『この電話は現在、電源が入っていないか、電波の届かない────』

「…………………」




…ご丁寧に、電源ごと切られたようだ。

これではこちら側からはどうする事もできない。

検察庁に押しかけたところで、さっきの様子からして彼が留守なのは間違いないだろう。

 ぼすっ。

手に持っていた己の携帯を無言でソファーに叩きつけた(本当に壊れるような床やテーブルに叩きつけない辺り、貧乏人の性かもしれない)成歩堂に罪はない。たぶん。




「ホラ、ミッチャン公認だと分かったらさっさとそのバッジをお渡しよ。」

「なるほどくんって、友達多そうに見えてロクな友達持ってないよね……何気に人徳ない?」




 御剣といい、トラブルメーカーの矢張といい。

いっそ哀れむような声でしみじみと呟く真宵に、成歩堂はもはや何も反論する気力が残っていなかった────。








無駄に長いので前後編に分割〜。
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