【独り言】 リザとエド 「……あら」 夕暮れに赤く染まる、セントラル墓地の一等地。 何処か遠慮がちに近付く足音にリザ・ホークアイが振り返ると、そこにはよく知る少年の姿があった。 「やっぱり中尉か」 少し見ない間に随分と背が伸びて大人っぽくなった少年が笑うのに釣られて、こちらも肩の力を抜く。 例え殺気がなくとも背後から近付かれると警戒してしまうのはもはや職業病なので仕方ない。 「エドワード君。もう外出して大丈夫なの?」 「ああ。オレが黙っていなくなると煩い奴が多いからな、ちゃんと外出許可は貰ってる。つーかアルと違ってオレはすぐにでも退院できるんだよ本当は。検査だリハビリだって周りが大袈裟なだけだ」 「何言ってるの。衰えた筋肉を強引に動かしたんだから、大事を取るのは必要な事よ。何かあってからでは遅いのだから」 「そう言う中尉こそ、首とか肩とか酷い怪我したって聞いたぜ。なのにもう職場復帰とは恐れ入るよ」 「私は自分で選んだ道だもの。これくらいは想定内よ」 「やっぱ強いな、中尉は」 この場所に来る事ができたのも事後処理で前大総統夫人宅に寄ったついで……山積みの仕事の合間を縫っての事なので軍服姿のリザに、エドワードが感心と呆れの混ざったような表情で肩を竦める。 エドワードの言う通り、リザの首や肩の包帯はまだ完全には取れていない。 もう少し休めと言ってくれた人も多かったが、ちょうど軍服に隠れる位置なのを幸いと早々に職場に戻ったのは自分の判断だ。 新しい大総統や人事異動も決定し、この国を一から立て直すべく目まぐるしく軍上層部が動いている現在、仕事を休むなど論外だった。 「アルフォンス君の調子はどう?」 「あーうん、医者が驚くくらい調子はいいよ。1日の半分以上眠ってるけどな。今はとにかく寝て体力を回復するのが先って事らしい」 「それで一人でここに来たのね」 「まあな。どうせアルが寝てる間はオレにできる事ねーし。……退院したらあいつと一緒にまた来るつもりだけど、その前に一度来たかったんだ」 「そう。私もね、また東に移動が決まったから。中央にいる今のうちに一人で来ておきたかったの」 「……そっか。邪魔して悪かったな」 「それはお互い様ね」 「だな」 どちらからともなく、小さく笑う。そのまま墓前に二人並んで黙祷を捧げた。 まだ建てられてから1年も経っていない新しい墓石にはリザの持ってきた控えめな花束が供えられている。 生前、何かの折に彼の人が好きだと言っていた花だ。 初めて彼と言葉を交わしたのは戦場。共に過ごした時間はそう長くはなく、その後の付き合いも彼の親友や仕事を間に挟んでの間接的なものが殆どだったが、好みの花を知るくらいには親しい間柄だった。 ついでに彼の愛妻や愛娘の好物はその10倍詳しくなってしまったのは言うまでもない。 「……ちょっと長くなるけど。独り言、いいかな」 「どうぞ?」 暫しの沈黙の後。先に口を開いたのは少年だった。 「二人で身体を取り戻そうって決めてから、ずっと走り続けてたけどさ。揺らいだ事があったんだ」 淡々と言葉を紡ぐエドワード。墓石を見据える彼の表情は長い前髪に隠されて見えない。 リザの相槌を待つでもなく少年は続けた。 「賢者の石の材料が生きた人間…それも複数だって知った時、確かにショックだった。でもその時はまだ実感がなかったんだと思う。暗号の解読が間違ってるかもしれない。賢者の石を使わなくても戻る方法があるかもしれない。そう、逃げる道があったんだ。これはオレ達兄弟だけの問題だから、オレの一生を使ってでも別の方法を探せばいいと心の何処かで考えていた」 でも違ったんだよな、と噛み締めるように言うエドワードの声は低い。 嘆いたり苦笑いで誤魔化したりせずに、ただ事実を述べようと努めているようだった。 「ヒューズ中…ヒューズさんが死んだのは間違いなくオレ達が巻き込んだからだ。オレ達と関わっていなければヒューズさんが軍の秘密に気付く事もなかったし、ホムンクルスに目を付けられる事もなかった。全然オレ達だけの問題じゃなかったんだ。正直、頭ん中がぐちゃぐちゃになってこの先どうしたらいいか分からなくなったよ」 脳裏に過ぎる微かなデジャヴ。 そうだ。俯いて拳を握るエドワードの様子は、いつだったかリザの住むアパートに銃を返しに来た彼が幼馴染の少女の事を話した時とよく似ている。 二階級特進で中佐から准将になった墓標の主を階級ではなく敬称で呼ぶのは、殉職を認められない子供じみた抵抗というよりエドワードにとって彼の人の記憶は「中佐の姿」で止まっているからだろう。 直接関わったのは数日でも、それだけ強烈なインパクトと信頼を兄弟に与えたのがマース・ヒューズという男だった。 「アルが『自分達のせいで死んでしまう人が出るのなら、このままでいい』って言った時、オレは何も答えられなかった。機械鎧があれば殆ど不自由なく人並みの生活ができるオレと違って、アルは寝る事も食べる事もできない。寒さや温もりを感じる事もできない。あいつはそんな身体にしたオレを責めようとはしなかったけど、本当は気が狂ってもおかしくないくらい辛かった筈なんだ。それなのに『このままでいい』と言ったアルに、『そうしよう』とも『駄目だ』とも言えなかった。しかもグレイシアさんとウィンリィに事情を全部打ち明けちまった。その時は全部話すのがオレにできる限りの誠意だと判断した訳だけど、真犯人も捕まってないのに関係者に事情を話すなんてその人達を新たな危険に晒すのと同義だ。後でブレダ少尉にすげぇ叱られたよ。言われるまでそんな事すら気付かなかった自分が情けねぇ」 なるほど、彼が弟より先に一人でここに来た理由がなんとなく分かった。 史上最年少国家錬金術師エドワード・エルリックの名はアメストリスでも広く知られている。 その鋼の銘に見合うだけの実力があり、一周りも二周りも年上の大人達と対等以上にやり合うだけの度胸も根性もある彼だが、エドワードはまだ十代半ばの少年なのだ。 悩みもするし、弱気にも不安にもなる。胸の内を吐き出してしまいたい時だってある。 周りの大人達に対してだけでなく弟や幼馴染にもそういった弱みを見せようとしないのは彼の意地であり、余計な心配をさせたくないという優しさでもあるのだろう。 どうやらリザ…そしてヒューズはエドワードにとって「意地を張らなくてもいい存在」と見なされているようだが、もしかしたらそれはとても光栄な事なのかもしれない。 「───だけど」 吐き出すだけ吐き出して吹っ切れたのか。 やがてゆっくりとエドワードが顔を上げた。そのまま大きく息を吸って吐く。口元を引き締める。 真っ直ぐ前を見据える金の髪と金の瞳に沈み往く夕陽が紅く反射して、年下の少年が神々しくさえ見えたのはリザの気のせいか。 「グレイシアさんはそんなオレに前に進めと言ってくれた。自分の信じる道を行けと言ってくれた。中尉も他の皆も、誰も諦めろとは言わなかった。こんなガキの言う出来の悪い冗談みたいな話を信じて協力してくれた。そのおかげでアルは無事身体を取り戻せて、オレもこうしてピンピンしてる。──本当に、皆には感謝してるんだ。ヒューズさんにはお礼や謝罪だけじゃ済まねぇのは百も承知だけど、だからってヒューズさんがオレを責めるような人じゃねぇのも分かってるつもりだけど、それでもこうさせて下さい」 再び墓石に顔を向けて、直立不動からの深い礼。 失った命は取り戻せない。頭の回るヒューズの事だから例えエルリック兄弟に関わっていなくてもいずれ軍の秘密に気付いていたかもしれないが、今回実際に兄弟に関わった事がヒューズの死因のひとつだった事実は揺るがない。 頭を下げずにはいられなかったのだろう、エドワードの真摯な気持ちがリザにも痛いほど伝わった。 こういう少年だからこそ自分達は彼ら兄弟に手を貸したのだとしみじみ思う。 結果としてそれがホムンクルスに牛耳られていたこの国と民を救う事に繋がり、自分達が兄弟によって助けられる事にもなったのは、奇妙な縁というより必然だった。 少しの間を置いて身体を起こした少年の目にはもう苦悩の色はない。 「これからはヒューズさんの分まで生きる、とか。ヒューズさんに代わって軍を立て直す為に尽力する、とか。そんな自己満足の綺麗事は言わねぇ。多分、オレに求められてるのはそういう事じゃないと思う。軍はオレがいなくても中尉やアームストロング少将や…大佐がいる限り大丈夫だ。だけど約束するよ。いつになるか分からないけど、オレはオレにしかできない事をやる。きっと簡単な事じゃねぇ。それでも必ずやってみせる。ヒューズさんに堂々と胸を張れる生き方をしてみせる。オレにはアルもいるし、できない事はないさ。……という事で中尉が証人な」 「…漸く私の出番のようね。いいわ、証人引き受けましょう」 ニカッと笑ってこちらを向いたエドワードに、リザも自然と笑みが零れた。 「聞いてくれて有難うな、中尉」 「どういたしまして」 明るい少年の声に、なんだかこちらまで元気を貰ったようだ。 自分もエドワードに負けてはいられない。信頼して軍を任せられたからには、期待に応えてみせよう。 少年には少年の人生があるように、ここからは大人の仕事だ。 ヒューズの分まであの人を支え背中を守るのは自分の役目であり、義務であり、意思であり、願いでもある。 あの人をもう暴走させたりはしない。一人にはしない。そう誰にでもなく自分に誓ったのだ。 今までの報告と気合を入れる為に訪れた場所だったが、ここで偶然エドワードに会えたのも世話焼きヒューズの人柄の成せる技なのかもしれない。 「もう病院の門限だからオレは帰るけど、中尉はどうする? まだここに?」 「そうね…私も用は済んだから司令部に引き上げるわ。車で来ているから病院まで送るわよ」 「そっか、じゃあお願いするかな。てか遅くまで付き合わせて悪かったな」 「元々息抜きでもあるから気にしないで。…それよりエドワード君」 「ん?」 最後にもう一度墓前に頭を下げ、少年と並んですっかり日の落ちた墓地の出口に向かう。 途中で不自然に言葉を切ったリザに、怪訝そうにエドワードがこちらを見やった。 ガス灯のおかげで日が落ちても足元が覚束なくなる事もなく、少年の表情も判別できるが、1年前はリザより10センチは下だった筈の彼の目線が今ではほぼ同じ高さになっている事に改めて月日の流れを感じてしまう。 それだけ少年は成長して大人になり、自分は老け───────それは今考えるのはよそう。 こほんと一つ咳払いし、リザは次の言葉を紡いだ。 「リゼンブールまで送れなくてごめんなさいね。一刻も早くウィンリィちゃんに会って安心させてあげたいでしょうに」 「へっ!? なななな何を急にってなんでまた中尉はそそそういう」 「だってエドワード君、ウィンリィちゃんの事大す」 「わ────────────────────!!!」 「エドワード君の傍にいるのはアルフォンス君だけじゃないでしょう。前にも言ったけど、これからは彼女を守ってあげてね。今までの分も」 「分かってる、分かってるからもう言わないでくれ頼むから!!!!」 暗がりの中で頭を抱える少年に、久しぶりに声を上げて笑う。 以前と同じ反応のようで、実は全く異なる反応。初心な少年も月日を経て己の気持ちを認める事にしたらしい。 まだまだ時間は掛かりそうではあるが、この様子ならそちらの心配は必要なさそうだ。 自分を慕ってくれるウィンリィ・ロックベルという少女に実の妹のような親近感を持っているのをリザも自覚していたが、彼女には幸せになって欲しいと心から思う。 少年と同様に──少女の少年への気持ちも、何故彼らが幼馴染のままであり続けようとしたのかも、初めて彼女に会った時から予想する事はできたのだから。 (…ヒューズ准将。実は貴方も気になっていたのでしょう?) かつてウィンリィがヒューズ家に滞在した話はリザもグレイシアから聞いている。 ヒューズの愛娘エリシアがウィンリィを姉のように慕って懐いていた事も。 エルリック兄弟の喧嘩にウィンリィが悩み、その相談にヒューズが乗った事も。 ウィンリィがヒューズ夫妻とエリシアに、幼くして両親を失った少女自身を重ねていた事も。 先ほどのエドワードの宣言の中に、意図的なのかウィンリィの名が出ていなかったのを見逃すほどリザも甘くない。 そもそも少年が早く退院したがっている理由など──エドワードだけでなく弟も一緒に、というのが第一条件だが──改めて聞くまでもなく分かりきっているのだ。 ───空気の澄んだリゼンブールほどではないだろうが、セントラルの夜空にも一番星は瞬く。 未だ顔を真っ赤にしてゴロゴロのたうち回ってる少年の頭上で、親指をグッと立てたヒューズの笑い声が聞こえたような気がした。
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