【旅立ちの夜】 トントン。 そろそろ子供はベッドに向かうだろうという時刻、今やゼクセンとグラスランド共有の前線基地となった古城の一室にごく控えめな音が響いた。 「…クリス?」 古いだけあって見た目よりずっしりとした造りの扉の前に立つのは、騎士団及び従卒の少年の厳しい監視を潜り抜けてやってきたブロンドの男。 片手には赤ワインのボトルとメイミ特製サンドイッチの紙包みを抱えている。 疲れたと言ってろくに夕食も摂らずに部屋に引き上げたこの部屋の住人の為に用意してもらったものだ。 「………さて、どうしましょうかね。」 だがしかし、ノックにも呼びかけにも何の反応もない。 室内の気配を探るまでもなく留守なのは明らかだ。 いくらなんでも大人が眠るには早すぎるし、彼女なら例えどんな理由があろうともいるならいるで何らかの反応を返すだろう。 居留守を使うなど生真面目な彼女の性格からいってあり得ない。 そして顎に手をやり口ではどうしようなどと言いつつも、ブロンドの男──ナッシュがするべき事はひとつしかなかった。
建物の外に出た途端、顔面に吹きつける強い風にナッシュは思わず声を漏らした。 さっきメイミのレストランに寄った時よりもずっと天候の悪化は進んでいるようだ。 ビネ・デル・ゼクセのような真夜中でも酔っ払いと客引きがふらふらしているような街とは違い、辺境城周辺において夜間の唯一の光源である筈の月は真っ黒な雲によって既に覆い隠されている。 この様子だとあと数分もしないうちに暴雨になるかもしれない。ワインとサンドイッチを彼女の部屋の前に置いてきたのは正解だろう。 (雨……水、か…) 大陸を横断する貿易風の関係で比較的穏やかなこの季節には珍しい、天候の乱れ。 それは世界を構成する27の紋章のひとつ、真の水の紋章が暴走しかけた後遺症に他ならない。 幸いにもそれは50年前の真の火の紋章の時と同じ結果になる直前に食い止められはしたが、相手は真の紋章である。 それも特に自然界への影響が強い五行の紋章だ。止めたとはいえ多少の影響はどうしようもないという事だろう。 この天候もおそらく一時的なものだろうが、大陸全体が吹き飛んだり凍りついたりしなかっただけ遥かにましである。 今更ながら自分がそんな人知を超えた存在を巡る争いに関わっている事に感慨深くなりつつ、ナッシュは勘を頼りに目的の人物を探す為に歩き出した。 ほぼ真っ暗と言える強風の中での危なげない足取りは今まで培った経験の賜物と言える。 悪天候くらいで立ち往生していたら今頃とっくに墓の下にいるだろう。 ハルモニア神官将直属の特殊工作員の仕事は決して甘いものではない。自慢にもならないし、正直いいかげん開放されたい気もするが。 「…来たな。」 ぽつり。 中庭を抜け、100歩ほど歩いたところでとうとう大きな水滴が顔に落ちた。 それはあっという間に勢いを増し、雨となって乾いた地面に大量の染みを作り出す。 心持ち小走りになりながら、前方に意識を集中する。暗闇の中で目を凝らし、気配を探った。 いくつかの角を曲がり、木々の隙間を音も立てずにすり抜ける。 その間にも雨足はますます激しくなり雷の音まで混じってきたが、ここまで来て引き返すつもりは毛頭ない。 やがて。 ───暗闇の中にぽつんと現れたのは、腰まで届く銀の髪を雨風に晒した一人の女性。 月明かりもない闇の中、おまけに雨で視界は最悪。辛うじて目に映るのは後姿なので顔も見えない。 それでもナッシュが彼女を見間違うなんて事はあり得ない。 ゼクセンの白き英雄。銀の乙女。そして─────炎の英雄。 尊敬、あるいは畏怖を含む呼び名を持つ彼女なしでは、今こうしてゼクセンとグラスランドが協力するなんて事もなかっただろう。 激しい雨も気にならないのか。 こちらに背を向け、石垣に寄りかかるようにして真っ黒な湖の方を向いたままぴくりとも動かないその姿はまるで全てを拒絶するかのようで──── 「いつまでもこんなところにいては風邪をひきますよ───お姫様。」 「……っ、ナッシュ!?」 弾かれたように振り返ったクリスが驚きの声をあげる。 一歩一歩近付き、ようやく表情の判別がつくところまで来ると案の定彼女はスミレ色の瞳を丸くしていた。 髪を下ろしているだけでなく、重い鎧も脱いだ私服姿の彼女を間近で見るのは久しぶりだ。 頭からつま先までびっしょりと濡れたクリスに、ナッシュはにこりと笑ってみせる。 「水も滴るいい女、ってのも健康あってのものだからな。」 「どうしてここが……」 「おれの情報網は完璧なんだ。美女の居場所ともなると余計にね。甘い香りに誘われる蜜蜂のように無意識に足が向いちまう。」 確かにここは辛うじて城の敷地内ではあるが建物からも湖からもちょうど死角になっていて、普段は誰も立ち寄らないような場所である。それでも晴れた昼間なら景色の美しさと静けさでここを訪れる価値はあるかもしれないが、こんな悪天候の夜にわざわざ森を抜けてここに来るのは余程のもの好きか馬鹿かのどちらかしかないだろう。 何故そんな場所にナッシュが足を運んだのかというと、種明かしはなんて事はない。 この城が本拠地になって間もない頃、いつか役に立つ事もあるかと極力目立たないように城の周辺を探索していた時に偶然彼女がこの辺りに居たのをちらりと見かけた事があったというだけである。それもただの一度だけ。 (我ながら大した自信だな…) それだけでクリスがここに居るのを確信し、本当に探し当ててしまった自分に内心呆れてしまう。 ───これは自分で思っていた以上に、重症なのかもしれない。 これでは何の為に事ある毎に「カミさん」を連発してきたのだか。 そんな複雑な思いを微塵も感じさせないナッシュの軽口に、クリスは大きく溜息をついた。 「……悪いが、お前の冗談に付き合う気分じゃない。心配しなくても風邪をひく前には戻るから、放っておいてくれないか。」 鎧は脱いでもクリスはクリス。 ゼクセン連邦騎士団長を就任するだけあってその声にはこの年頃の女性には少々不釣合いな威厳と厳しさが含まれている。 クリスはそのままナッシュの存在などなかったかのように男に背を向け、再び石垣越しに湖に目をやった。 ───瞬間、眩い雷光が辺りを包み。 僅かに遅れてガラガラという雷鳴が響く頃には、二つの影が重なっていた。 「な、何を…!!」 背後から肩越しに抱きかかえるようにして回された腕に、クリスが狼狽の声をあげる。 逃れようと咄嗟に動かした腕は、しかし彼女の予想以上に強い力で抑え込まれてしまった。 しかもこの体勢ではそれでなくても暗いのにお互いの顔は全く見えない。 「ナッシュ!! 悪ふざけもいいかげんにしないと本気で斬るぞ!!」 「あんたにそんな元気があれば喜んで斬られるさ。そういう台詞は、涙を流しながら言うものではないと思うがね。」 「……!!」 耳元で静かに紡がれたナッシュの言葉に、びくりと彼女の肩が反応する。
彼女がどうして一人でこんな場所へ来たのか。何故彼女が泣いていたのか。隠そうとするのか。 そんな事くらい、分からないナッシュではない。だからこそここにやって来たのだ。 そして今の彼女に自分ができる事などこれくらいしかない。 ナッシュはすっぽりと包むように自分のマントを彼女の身体に回すと、抱きしめる腕に力を込めた。 濡れた服を通して二人の体温がじわりと伝わる。
「…何故…」 「騎士だろうと英雄だろうと関係ない。泣きたい時くらい、思いっきり泣けばいいさ。」 「……………」 「お姫様の気が済むまで、わたしは湯たんぽになりきってみせますよ。」 「………………っ」
幼い頃に消息を絶ち。 生きているのを信じて同じ道に進み、やっと逢えたと思った途端に目の前で永遠の別れを告げた彼女の父親。彼女のたった一人の肉親。 彼女が本当に望んだのはこんな結末ではない。 もっと、話したかっただろう。 もっと、共に過ごしたかっただろう。 空白の年月を埋めるには少な過ぎる邂逅。 それでも炎の英雄として。 ゼクセン連邦騎士団長として弱みを見せる事が許されなかったクリス。 感情を封じ込め、気丈に振舞わざるを得なかった彼女。
彼女の父が命懸けで残した想いを全身に受けて。
一刻ばかりそうしていただろうか。 ふと気が付けば雨は小降りになり、それを認識した時にはあれだけ雲に覆われていた空に満天の星が戻っていた。 「…………もう、大丈夫だから。」 やがて照れたような微かな声が腕の中から響き、ナッシュは頬を緩ませた。 クリスの事だ、おそらくもう何年も声をあげて泣いた事などなかったのだろう。 散々泣き叫んだ分少し声は掠れてはいるが、もう心配ない。彼女は強い女性だ。 「それは残念。せっかく抱き心地が良かったのに───」 ぼぐっ。 次の瞬間、ナッシュの鳩尾に見事な肘鉄が入る。 思わず腕を緩めた隙にクリスはさっさとナッシュの手の届かない位置に移動してみせた。 剣術でなくとも流れるような素晴らしい身のこなしはさすがである。 「…湯たんぽだったんじゃないのか、お前は。」 ようやく姿を現した月明かりの下、ごほごほと咽る男を睨みつける彼女の顔には、照れと怒りのせいか朱が走っている。 ───本当に、もう心配はいらないようだ。 「はは…気にしない、気にしない。湯たんぽが必要になったらまたいつでも呼んでくれ。クリスの為ならどこからでも駆け付けるから。」 「まったくお前という奴は…」 クリス以上にずぶ濡れ姿で腹をさすりながらも相変わらず軽口を並べるナッシュに、彼女は心底呆れたように肩を竦める。 それでも。
ひと呼吸してから真っ直ぐにナッシュを見つめる彼女の笑顔は、思いっきり泣いた分少し腫れぼったいけれど今まで見た事がないくらい綺麗で。魅力的で。 「どういたしまして。」 それに今日一番の笑みを返しながら、彼女の役に立てるのならこんな仕事も悪くない、と初めて思った。
「─────」 「ん? 何か言ったかクリス?」 「…いや。気のせいだろう。」 「……そうだな。」
彼女が小さく囁いた言葉は、森の奥へと消えていく。 どちらからともなく繋いだ手にお互いの温もりを残して。
男が顔を上げると東の空が徐々に明るくなってきていた。 もうすぐ完全に夜が明ける。この分だと今日はいい天気になりそうだ。 生乾きの服も早いうちに乾いてくれるとありがたい。 そんな事を思いながら丘の上から振り返ると、朝焼けに浮かぶ湖の古城はおもちゃのように小さく見えた。 目を覚まして自分が城にいないのに気付いた時、彼女はどんな顔をするのだろうか。 怒るのか。悲しむのか。 それとも判っていたのだろうか。
そしてそれは自分にとっても決断の時。
遠くハルモニアへと続く道を歩きながら、ナッシュは誰に言うでもなく誓ってみせた。
【いつになったらドリームが落ち着くのだろう幻水3座談会】 ナッシュ「そんなこんなで、幻水サイトでもないのにまたも登場してしまった訳だが…」 クリス 「SSとしては3作目に当たるが、これは別に続き物という訳ではないらしいな。」 ナッシュ「そうだなぁ。話の時期も継承者もたまたま前作の続きみたいになってるけど、 単に作者が書きたいものを書きたい順に書いてるだけってのが正解だろう。 この流れでいくと次回作が出ても続きっぽくなる可能性は高いけどな。 ところで、クリス。(悪戯っぽくにやり)」 クリス 「…なんだ?(警戒の眼差し)」 ナッシュ「夜中に二人仲良く城に戻った後、何もなかったと思うか?」 クリス 「!!!」 ナッシュ「どうやら作者的にはどっちともとれるように、わざとぼかしたらしいんだ。」 クリス 「……………」 ナッシュ「なんでも、作者の夢のひとつにおれとクリスの18禁話を書くというのがあるらしい。 おれとしては、どうせならきちんと文章でとも思うんだが…………はっ!!」 どかどかどかどか。←四方八方から剣や槍や弓や包丁(笑)が飛んできた音 クリス 「……またこのオチか……(溜息)」 ナッシュ「(返事がない。ただの屍のようだ)」←ゲームが違う
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