【のどあめ】 ことことことことこと。 お鍋の中でニンジンとジャガイモと玉葱が湯気を立てて踊っている。 未だ使い慣れているとは言い難いキッチンは戦場のようになってるけど、あたしの心もこの野菜達と同じくらい弾んでいた。 おたまで灰汁を取り除きながら鼻歌まで出る始末なのだから、それはもう上機嫌と言っていい。 因みにさっきまでテーブルの下で寝そべっていたジョリーは既に玄関に行っている。 きっと今頃玄関の扉をじっと見つめているのだろう。 ジョリーの探知能力は確かだ。 という事は、もうすぐ。 もうすぐ帰ってくる。 「───ただいま。」 「涼兄!」 ガチャリ。 扉の開いた音と共に聞こえたのは、大好きな人の声。 あたしは流しで洗っていた手を大急ぎで拭くと、キッチンを飛び出した。 「よしよし、ジョリー。爺さんだってのにお前は元気だなぁ。」 玄関先でばうばうと飛びつく愛犬の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら笑う涼兄。 何でもない仕草ひとつがカッコイイのはもう犯罪の域に達していると思う。 これは絶対、身内贔屓とか惚れた欲目じゃないよ。うん。 「お帰りなさい、涼兄。」 「ただいま、里緒。」 そして玄関まで出てきたあたしと目が合って、にこりと微笑む涼兄に密かに再度ノックアウト。 心臓がどきりと跳ねる。 ───あの事故から…夢の世界での出来事からもうすぐ1年。 無事退院して再び大学の寮に戻った涼兄は、以前よりは家に戻って来てくれるようになった。 あたしとの事もあってちょっとまだ照れ臭いらしいけど、お父さんお母さんとも上手くやっている。 ただ、それでも涼兄が講義だ実習だバイトだと忙しいのは相変わらずで。 たまの休みには帰ってきてくれるしメールや電話もしてくれるものの、涼兄の顔を見たのは実に3ヶ月振りだった。 …ドキドキするのも無理はない、と思う。 ぺた。 「りょ、涼兄!?」 が。 前置きもなくいきなりおでこに掌を当てられて、あたしは目を丸くした。 少しひんやりとして、大きくて、骨ばった男の人の手。 「なななに……」 間近に腰をかがめた涼兄の顔があって、余計に焦る。 いや間近で見た事がない訳じゃないけど、3ヶ月振りで心の準備というものが! って何言ってるんだあたし!! 「んー…顔は赤いけど熱はないようだな。もう大丈夫なのか?」 動揺しまくるあたしとは正反対に、至極真面目な涼兄の声。 それでやっとあたしは理解した。 「平気、平気。風邪をひいて寝込んだのは2日も前だよ。」 「そうかもしれないけど、今年の風邪はしつこいんだぞ。お前は受験生だし。」 「だーいじょぶだって! 涼兄ってば心配し過ぎ!」 きっと電話でお母さんから聞いたんだろう。 本気で心配そうに言う涼兄はやっぱりお医者さんの卵なんだなぁと感心してしまう。 実際、あたしの風邪はもう殆ど治っていた。 もともと熱も一晩で下がったくらいで大したものではなく、2日前だって学校に行こうと思えば行けない事はなかったんだけど、お母さんに大事を取って休めと言われただけだ。 何より久しぶりに涼兄が帰って来るって時に寝込むなんて勿体無い事は絶対できない。 「それならいいけど……母さん達は?」 二人していつまでも玄関に突っ立っていても仕方ない。 やっとおでこから手を離し、重そうなスポーツバッグを担ぎ直した涼兄とあたしは並んでキッチンに続くリビングへと向かった。 その後ろをジョリーがスキップするようについて来る。 「お父さんは明日まで出張だよ。お母さんは今日は高校の同窓会で、帰りは遅くなるって。」 「…それでか、お前のエプロン姿の訳は。」 「……その間は何? 涼兄。」 「気にしない気にしない。夕飯は里緒が作ってくれるんだろう。楽しみにしておくよ。」 「もう! そりゃ何でもできる涼兄には敵わないだろうけど、あたしだって最近お母さんに習って料理の勉強してるんだから!」 「それは凄い。ところでさっきから鍋を火に掛けっぱなしみたいだけど、いいのかな?」 「…って忘れてた────!!」 きゃーきゃー言いながらキッチンに駆け込むあたしの後ろで涼兄が爆笑している気配がする。 ああもう、どうせあたしはいつもこうですよ! 涼兄には逆立ちしたって敵いませんよ! 吹き零れる寸前だったお鍋を間一髪で救い、大きく息を吐く。 …取り敢えず間に合って良かった。 もし失敗したりしたら涼兄の事だ、帰ってきたばかりで疲れていようと何だろうとあたしの手伝いをしてくれるだろう。 結果、あたしよりずっと手際のいい涼兄が殆ど作る事になるのは間違いない。 イタリアンレストラン仕込みの美味しいゴハンに惹かれない訳じゃないけど、いくらなんでもそれでは申し訳ないし、女としても情けなさ過ぎる。 あたしはお鍋をおたまで慎重にかき混ぜながら後ろに声を掛けた。 「涼兄、悪いけどもう少し待ってくれる? もうちょっと遅いと思ってたからまだ出来てないの。…うーん、あと20分くらいかな。その頃にはご飯も炊けるから。」 「ああ、急がなくてもいいよ。俺が電車1本早いのに乗れたんで着くのが早かったんだし。そうだ、ちょっと出掛けてくる。すぐに戻るから。」 「え、今から?」 もう外は暗い。意外な言葉に思わず振り返ると、荷物をカーペットに降ろして「お前も行くか?」とジョリーに聞いている涼兄と嬉しそうに尻尾を振る愛犬が目に入る。 涼兄はあたしの視線に気付くとやんわりと笑った。 「大丈夫、料理が出来上がるまでには戻るよ。」 「…まさか胃薬買ってくるとか言わないよね?」 「まさか。買ってきて欲しいのか?」 「涼兄!」 「ははは、冗談だよ。」 拳を振り上げるあたしを避ける真似をしながら、涼兄の姿が廊下に消える。 続いてジョリーの尻尾が見えなくなるのを確認しながら、あたしは首を傾げた。 …ま、いいか。今のあたしには目の前の課題を片付ける方が重大だし。 結局あたしは頭の中の?マークを打ち消すと、黙々と料理の続きに没頭したのだった。 「ただいま。」 本日3度目の涼兄の言葉が聞こえたのは、予告通り涼兄が出て行ってから15分後の事だった。 「お帰りなさいー。」 ちょうど手が離せないところだったのでキッチンで包丁を握ったまま、玄関に向けて声を掛ける。 するとすぐに白いふわふわの巨大な物体が部屋に駆け込んできた。 …涼兄がいると本当に元気だなぁジョリーは。 もう13歳になるジョリーが普段ごろんと寝そべっている事が多いのは、この為に体力を温存しているからではないかとさえ思えてくる。 あたしは切ったばかりのトマトをサラダボウルに飾り付け、最後の味見をしたお鍋に蓋をした。 よし、あたしにしては上々。後は弱火で煮込むだけだ。 さっきの失敗を踏まえ、念の為キッチンタイマーを5分後にセットしておく。 「里緒。」 ふいに、耳のすぐ後ろであたしを呼ぶ声がした。 「ふえっ!?」 いつの間にここまで近寄ったのか、あたしの背中にくっ付くように人影が立つ。 慌てて振り返ろうとした途端──── 唇が、塞がれた。 あたしの腰を捉え、頭の後ろを支えるようにして廻された大きな手。 かたん、とキッチンタイマーが床に滑り落ちた。 (涼、兄───) 突然の事で見開いてしまった瞳をゆっくりと閉じる。 何度経験してもドキドキが止まらない。 大好きな人との、キス。 もう涼兄はあたしのお兄ちゃんじゃない。 本当は従兄妹の亮さんだから。 何の罪の意識もなく、こうして触れ合う事ができる。 悩んでどうしようもなくなっていたあの頃を思うと、これはどんなに幸せな事だろう。 (───え?) と。 合わさったままの唇が開かされ、柑橘類のつんとした香りと味があたしの口の中に広がった。 涼兄の舌と一緒にころりと何かが入り込む。 (え? え? 何っ!?) それでなくても翻弄されるばかりの深いキスが、別の甘さを運ぶ。 ころころと転がされるそれが何なのかはやっと分かったけど、だからと言って慣れるようなものでもない。 ───ようやく涼兄があたしを解放した時。 あたしは顔を真っ赤にしてキッチンの床にぺたりと座り込んでしまった。 悔しい事に、膝にまるで力が入らない。 あたしの口の中に残るのは二人分の熱で小さくなった───かりん味の、飴。 「りょおにぃ〜〜〜…」 涙の滲んだ目で見上げると、案の定そこにあるのは涼兄の笑顔。 でも。してやったり、という悪戯っ子のような目は誤魔化せない。 「里緒の為、だよ。咽喉、まだ痛いんだろう? この咽喉飴は俺のお薦めだから効き目は保証するよ。」 「…だからって…。わざわざこれを買いに行ってたの?」 たぶん、駅前のコンビニにでも行ってきたのだろう。それだと時間はちょうど合う。 ───確かに。先日の風邪の名残か、まだちょっとだけ咽喉に違和感はあった。 だけどそれはほんのちょっとという程度で、薬を飲むほどじゃなかったのだ。 味だって普通に分かるし(でなければ流石に料理は諦めただろう)、特に不自由もない。 毎日朝から顔を合わせているお母さんだって全然気が付かなかったのに、どうしてさっき会ったばかりの涼兄に分かったんだろうか。 「里緒の事なら、何だって分かるよ。ずっとお前だけを見てきたんだからね。」 さらり。 こちらの考えなどお見通しとばかり、何でもないように微笑んで言い放つ涼兄。 ピピピピピピピ。 そしてタイミングを計ったように、セットしてあったキッチンタイマーが鳴った。 涼兄がコンロの火をごく自然な動作で止める。 ───まさに、完敗。 「………負けました。」 涼兄に腕を支えて貰って立ち上がりながら、あたしは敗北宣言をする。 ダメだ。格が違い過ぎる。 涼兄の楽しそうな笑い声がキッチンに響き、その隣ではジョリーがきょとんとあたし達を見上げていた。 大好きな大好きな、涼兄。 現実の世界でも。夢の世界でも。 いつだって涼兄はあたしを守ってくれた。 きっとあたしは一生涼兄には敵わないんだろうけど。 それでも許されるのならば。 どうかあなたと一緒にいさせて下さい。 これからも、ずっと───── 「また咽喉が痛くなったら、いつでも呼んでくれよ?」 「……っ、涼兄の馬鹿っ!」 その後。あたしの作った料理を美味しいと残さず食べてくれた涼兄とあたしが夜をどう過ごしたのかは秘密、だ。 【誰だよこんな砂吐き話を書いた奴は座談会】 作者「うがーやめれー!! 鳥肌立つぅぅぅぅ!!(卓袱台返し)」 涼 「……書いた本人が言うかな、普通。」 作者「うっさい、私だって駄文書きやっててここまで寒くなったのは初めてだよ! 記念すべき100企画第10弾だってのに本気で砂吐き用バケツが3杯はいるよ!! お前らは私にトンネルでも掘れって言うのか!?(謎)」 涼 「うーん。俺にとっては全然普通なんだけどなぁ。(さらり)」 里緒「りょ、涼兄……」 涼 「里緒は何も心配する事ないよ。(にこ)」 里緒「でも涼兄……本当にもうお腹の調子は大丈夫なの? だから無理して全部食べなくてもいいって言ったのに。 結局あの後一晩寝込んじゃって、あたしは苦しんでる涼兄の横にいる事しかできなくて、 帰ってきたお母さんにも思いっきり呆れられちゃって……っ!」 ←今明かされた真実!!(笑) 涼 「はは、里緒が頑張って作ってくれたものを残せる訳ないじゃないか。 大丈夫。里緒が傍にいてくれただけで俺は充分幸せだったよ。(頭をなでなで)」 作者「だぁ───!! さっさとあっち行け、この馬鹿っぷるがぁぁぁ────!!!」 という事で作者が放棄した為、座談会強制終了。
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