【かみなり】 ザァァァ────………。 宿の外は相変わらず、激しい雨が降り注いでいる。 「はぁ…」 この周辺地域では珍しい見事な金髪と翡翠の瞳を持つ男は、宿の玄関兼フロント兼酒場となっている大部屋のカウンターで本日何度目かの溜息をついた。 目の前に置かれたエールのジョッキは既に空に近い。 「お客さんも災難だったねぇ。急ぎの用事じゃないのかい?」 「まぁ…急ぎと言えば急ぎなんだが…」 3日も滞在すれば顔見知りにもなる。 人の良さそうな宿の主人に生返事を返し、その男──今年27歳になったナッシュ・クロービスは最後の一口を飲み干した。 季節外れの集中豪雨は、予定外だった。 雨だからといって任務が遂行できない訳ではないしそんな事で休める程甘い仕事でもないのだが、資金も底を尽きかけている今、連絡係のドミンゲスが現れない事にはどうしようもない。 頼りになる相棒は豪雨の中を無理に飛んで体調を崩すなんてマヌケな選択をする筈もなく、今頃は木の下でのんびり雨宿りでもしているのだろう。 昔からその辺はしっかりしているのだ、彼は。 (あいつもそろそろトシだしなぁ…) いいかげん嫁さんでも探してやらないとな、と自分の事を遠くの棚に上げてナッシュは苦笑を浮かべた。 ───ザジとの決着をつけ、クリスタルバレーを出奔してから既に5年の歳月が過ぎようとしている。 一度はハルモニアと決別する決心もした。それが最善と思った。 それなのに何の因果か、今は再びハルモニアの特殊工作員──しかも傭兵と大して変わらない辺境警備隊などではなく神官将ササライ直属の部下として働いている自分。 …結局のところ、平穏無事な生活などというものに縁がないのだろうと諦めざるを得ない。 双蛇剣グローサー・フルスを封印し、何かと不都合の多いラトキエの名前を捨てて遠縁のクロービス姓を名乗るようになって久しいが、いったい何時になればササライの『借り』を返し終えるのか予想もつかなかった。 (………というか、おれ、本当に開放して貰えるのか?) 『借り』をネタにナッシュを鬼のようにこき使う姿だけは少年のままの上司。 その爽やかでありながら分かる人には怖過ぎる笑顔が思い浮かび、思わず頭を抱える。 確かにユーリの件ではレナ共々世話になった。 現在自分がハルモニアを苦もなく歩けるのはササライのおかげだというのも承知している。 が。なんだか全てが彼の計算の内だったような気がしてならないのは考え過ぎか。 少なくとも彼の部下である間は、ドミンゲスはともかく自分の事にかまけている暇がないのは確実である。 ピカッ。────ゴロゴロゴロ。 ふと顔を上げるといつの間にやら豪雨に雷まで加わっていた。 日没から既に数時間。 暗闇の中で眩いばかりの雷光が簡素な造りの窓から見え隠れしている。 「こりゃあ、落ちるねぇ。」 「……おれの上だけは勘弁して欲しいものだな。」 「なんだいお客さん、経験あるのかい?」 「…………まぁね。忘れたくても忘れられないさ。」 「へぇ、そりゃ凄いな。」 「はは…悪運の強さと丈夫さだけが取り柄なんだよ。」 皿を拭きながら目を丸くする主人の言葉に、ナッシュは力なく笑って肩を竦めてみせた。 ───雷。 それで思い浮かぶ人物は、良くも悪くもただ一人しかいない。 正確には、電撃なのだが。 ………今思うと耐火マントがあったとはいえ、あれだけ喰らってよく死ななかったものだ。 「じゃ、おれは部屋に戻るよ。ごちそうさん。」 「明日の朝食はどうする?」 「腹が減ったら食堂に行かせて貰うよ。」 「はいよ。」 これ以上ここにいても仕方ない。 動けないならせめて情報を集めようと、残り少ない軍資金の中から酒代を搾り出して居座ってみたものの、この宿にいる者達からは大した情報は聞き出せそうになかった。 尤もそんな簡単に『27の真の紋章』の情報が転がっていれば誰も苦労はしないので、最初から期待はしていなかったが。 椅子から立ち上がり、主人に軽く手を振って部屋へ向かおうとして。 「─────え?」 からん、と呼び鈴を鳴らして宿の扉が開かれた。 途端に隙間から雨と風が吹き込んでくる。 ───カッ。 瞬間、雷の光が一人の人物のシルエットを室内に映し出した。 小柄な少女らしきその人影。 ───まるで時が止まったようだった。 ほう、とその場にいた者達の息を呑むような声が聞こえる。 青白い光が治まって徐々にはっきりと少女の姿が現れる。 殆ど純白に近い絹糸のような銀髪。 透き通るような真珠色の肌。 言い知れぬ深みを湛えながら硬質な冷たさをも含んだ紅玉の瞳。 今までずっと雨に打たれていたのだろう、全身ずぶ濡れでありながら間違いなく美少女と評されるその姿は何処か人間離れして見えた。 華奢な身体に濡れて纏わりついた衣服が艶かしい。 そして彼女はカウンターの方に向かってふらふらとまるで意識のないように歩き出したかと思うと、突然前のめりに倒れかけた。 「……シエラ!!!」 忘れる筈がない。 5年前に別れた時と全く変わらないその姿を。 間一髪で駆け寄り、倒れゆく少女の身体を両腕で支える。 ローブごとぐっしょりと濡れた彼女の服の冷たさがじわりとこちらにまで伝わった。 周りのざわめきを無視してナッシュは声を張り上げた。 「おい!! シエラ、しっかりしろ!!」 天下無敵の『始祖様』がこんなにあっさり自分を抱きかかえさせる事自体、異常だ。 そのシエラは呼びかけにうっすらと目を開けると、いかにも億劫そうに呟いた。 「……なんじゃ、荷物持ちか……老けたのう……」 「……………5年振りに逢って第一声がそれかよ。せめていい男になったと言ってくれ…」 相変わらずというか、何というか。 若々しい少女の姿に反して年寄り臭い言葉遣いも昔の記憶そのままだ。 すぐに自分だと分かってくれたのはありがたいが、どうしようもなく力が抜ける。 「…っておい!?」 ふと見ればシエラは人の腕の中で早くもすやすやと寝息を立てていた。 「……………」 たまたま知り合いだったから良かったものの、こいつは自分にどうしろと言うのか。 というか、これは……。 おそるおそる視線を上げると、ちょうどタオルを持ってきてくれたらしい主人がにやりと笑って片目を瞑ってみせた。 「おふたりさん、ごゆっくりな。」 「……………ありがとう。」 もはやナッシュには素直にタオルを受け取り、好奇心に溢れた視線の中で『荷物』を部屋に持ち帰るしか道はないようであった。 ばたん、と木製の扉が閉まる。 ついでに部屋の鍵をかけたのは単に旅人一般(自分も彼女もあまり一般人とは言えないが)としての防犯行為であり、深い意味はない。 兎にも角にも『荷物』…もとい『27の真の紋章のひとつである月の紋章の正統なる継承者にして吸血鬼の始祖たる見掛けだけは16、17歳の美少女だけどその実年齢は850歳の女』をベッドに降ろすとナッシュはその脇に腰掛け、大きく溜息をついた。 「狸寝入りはもういいぜ? 始祖様。」 「…なんじゃ、おんし気付いておったのか。」 声のした方に顔を向ければさっきの寝息は何処へやら、シエラは真紅の瞳を細めて何処か面白そうにナッシュを見返していた。 豪雨で暗闇しか見えない窓とランプの明かりだけが光源である薄暗い部屋の中で、しどけなく横たわった彼女はやけに色気を醸し出して見える。 建物の古さゆえか、風でカタカタと鳴る窓が煩い。 ほんの一瞬浮かんだ思考を追い払うようにナッシュは話を続けた。 「それくらい分からない訳ないだろ。で、なんだってそんな事を?」 「説明が面倒だっただけじゃ。」 「あのなぁ…」 「まぁ、わらわの身体が満足に動かぬのはあながち演技でもないがの。」 「なに?」 やれ「疲れた」だの「だるい」だの文句を言う事はあったが、彼女がこうはっきりと弱音を吐くのは珍しい。 彼女と共に旅をしたのはおよそ5年前。 それもほんの数日の事だったが、いつだってシエラは傲慢で我侭で自己中で……強かった。誰よりも。 目を見開くナッシュの横で、くしゅんと小さくクシャミが上がる。 慌てて先程借りたタオルをシエラに渡してやると、彼女はベッドに横たわったまま緩慢な動作で黙ってそれを掴んだ。 これは本当に身体を持ち上げる力も残っていないのかもしれない。 ざっと見た感じは熱があるようにも体調が悪いようにも見えないが、いったいどんな災難が永遠の命を約束された彼女の身体を蝕んでいるというのか。 昔、『力』を奪われて同じように動けなくなった彼女を見た事があるが、それとも違うような気がする。 ただはっきりしているのは彼女が未だ塗れた服を着ているという事と、身体が冷え切っているという事。 このままだといくら真の紋章持ちでも風邪をひくのは時間の問題だろう。 もちろんさっさと着替えるのが一番いいのだが────。 「………おんしに頼みがある。」 沈黙を破ったのは、他ならぬ彼女であった。 「…なんだ?」 シエラの声に、やはり以前の彼女とは違う何かを感じてナッシュは知らず身構えた。 何故だろう。聞くのが怖い。胸の奥がじりじりと焼けるような感覚。 再び、窓の外で雷光が光った。 次いでゴロゴロと鳴り響く雷鳴。更に激しく降り注ぐ豪雨。 今はそれら全てに現実味がない。 「……………わらわを…温めてはくれぬか?」 やがて紡がれたのは静かな───感情の伺えぬ声。 その、意味するところが分からぬ程ナッシュも聖人ではない。 「…………………おれは、電撃も血を吸われるのもごめんだぞ。」 彼女に背を向け、平静を装って返すのがやっとだった。 声が、掠れる。 ───やっと諦めたと思ったのに。 諦めようと思っていたのに。 「そんな力が残っておれば誰もおんしに頼まんわ。」 シエラの顔を直視する事ができない。 背中を向けたままのナッシュの耳に、彼女の独り言のような淡々とした声が届いた。 「────難儀なものよ。…これも月の紋章の呪いなのか、それとも身体の老化は止まってもわらわも女だという事かの。数十年に一度…あるいは数百年に一度、こういう波が来る事があるのじゃ。どういう原理か分からぬが体内の均衡が崩れ、それが進むと身体がだるくて思うように動かぬようになる。」 シエラが小さく息を吐く気配がした。 「ここまでくると人の血を吸うてもどうにもならぬ。男と肌を合わせる事によってしか、解決するのは叶わぬ……」 まるで、他人事のように紡がれる言葉。 彼女はそうやって850年もの年月を生きてきたのだろうか。 いや、彼女にはかつて────共に生きた男がいた。 虚ろな生に執着するあまり始祖としての彼女の『力』を奪い…そして最期には彼女自身の手で灰に還された男が。 「それとも、売女のような年寄りには触れたくもないか?」 「おま…っ!」 彼女らしくない。あまりな言葉に振り返ると、まともにシエラと目が合った。 心臓を鷲掴みされるような、紅い瞳。 彼女はナッシュから目を逸らすような事はせず、ただ真っ直ぐに目の前の男を見つめていた。 まるで試すかのように。 「……………」 「……………」 息が、苦しい。 どうしてそんな事を簡単に口に出せるのか。 何故、そんな時によりによって自分の前に現れたのか。 ────あの時。 共に生きたい。 そう言った自分を残して去ったのは他ならぬ彼女自身なのに。 ぎし、とベッドが鈍い音を立てて軋む。 ランプの明かりを背にして、ナッシュは静かに体重を移動させた。 シエラを組み敷くようにして彼女を見下ろす。 この角度で彼女の顔を見る日が来るとは思わなかった。 「…………おれは、あんたの好みじゃなかったんじゃないのか?」 「今は贅沢も言っておられんのでな。」 「……………おれの都合も少しは考えたらどうだ。」 「わらわの知った事ではない。」 昔、散々シエラに言われた。 お前は好みじゃないと。 どうせ『同族』にするのなら好みに合った男の方がいいと。 それでも。 例え、一時の夢でも。 「馬鹿野郎…」 ───シエラの唇を己の唇で塞ぐまで、そう長い時間は掛からなかった。 目を閉じた耳の奥で雷の音が響く。 分かっている。 シエラは、絶対に共に生きようとは言わない。 己の呪われた運命にナッシュを巻き込むのを良しとしない。 ナッシュにはまだ、護るべき人と帰る場所がある。 だから決してナッシュを縛ろうとはしない。 もしナッシュに他に女性ができれば、彼女は黙って祝福するのだろう。 そして。 一度は共に生きる事を願った者…心より愛した者を自らの手で葬った彼女にとって、新たな伴侶を得るというのはまた同じ事が起きる可能性があるのを覚悟せよと言うのと同じ。 そんな事をこっちの我侭で強要できる訳がない。 ───自分達にできるのは、束の間の温もりを共有する事のみ。 彼女の話はおそらく本当だ。 誰よりも誇り高い彼女が、そんな事で嘘をつくとは考えられない。 その気にさえなればここまで症状が悪化する前にいくらでも男を誘う事はできたのに、「頼む」などと言う筈がない。 ───今日この日が来るのを己の身体に感じ、その為に他ならぬ自分を探し出してくれた彼女を振り払う事などできはしない。 柔らかなシエラの唇を味わいながら、ナッシュは彼女の濡れた衣服に手をかけた。 こういう時、己の手先の器用さに半分呆れ、半分感謝したくなる。 難なく止め具を外して徐々に露になる真っ白い肌が、ぼんやりと暗闇に浮かんだ。 「ん…っ」 成熟した女となる前で成長を止めたがゆえにお世辞にもふくよかとは言えないが、予想以上に感度がいい。 華奢な身体に少し触れただけで敏感に反応を返してくる彼女がどうしようもなく可愛く思え、そんな自分に心の中で苦笑する。 銀糸のような髪を梳いて唇から溢れる唾液を指先で拭ってやると、熱を帯びて潤んだ瞳がじっとこちらを見返した。 「…おんし、やはりナンパ師じゃの。」 「………減らず口を叩くと、容赦しないぞ。」 まるで甘さの欠片もない台詞。決して恋人同士の会話ではない。 だがそれがいかにも自分達らしくて。 再会して初めて僅かに微笑んだシエラに、ナッシュはやっと笑みを返す事ができた。 「あ…ふ…っ」 何かに耐えるような甘い声が暗闇に響く。 互いの体温が重なり、冷え切っていた彼女の身体に少しずつ熱が戻る。 貪るように互いを求め、互いに与える。 今はそれが全て。 ───愛してるとは、言わない。 ───名前も、呼んだりしない。 ───だけど確実にふたりの間には、何か温かいものがある。 何もかも精一杯だった22歳のあの頃とは違う。 そう思えるようになっただけ、自分も少しは彼女に近付けたのだろうか。 「ん………」 頬に当たる光の眩しさにナッシュが目を開けると、ベッドの隣りは既に空だった。 窓からは昇り始めたばかりの朝日が差し込んできている。 長雨もようやく終わりを告げたらしい。 「………勝手な奴だよな………」 裸の上半身をゆっくりと起こし、金の髪を掻き回しながらひとりごちた。 最初から分かっていた。 自分に黙って出て行くだろう事も。 ───5年前のあの時と同じように。 だから敢えて、彼女をそのまま行かせた。 まだ微かにシーツに残る彼女の温もりだけが、夕べの出来事が夢でなかった事を示している。 生きていればきっと、また逢えるだろう。 その時も彼女は今と全く変わらない姿で、なんでもないようにひょっこりと自分の前に現われるのだ。 一度は肌を合わせた事など忘れたかのように。 ただの古い知り合いとして接し、老けただの太っただの言いたい事を言うのだろう。 そしてナッシュが少しでも口を滑らせれば、またなんの躊躇いもなく電撃をお見舞いしてくれるに違いない。 床に散らばった服を手早く身に着け、ぎしぎしと建付けの悪い窓を開け放つ。 同時に昨日の雨が嘘のような涼やかな風が吹き込んできた。 「……ほんと雷みたいな奴だな、あいつは。」 眩しくて。 激しくて。 気まぐれで。 逢いたくても、逢えない。 捕まえようとしても、決して捕まえられない。 それでいて忘れられない足跡を残す女。 ───いつの日か、彼女よりも共に生きたいと思えるような女に出遭える事があるのだろうか。 小さく苦笑を浮かべると。 ばさりと翼をはばたかせて窓辺に降り立つ相棒を、ナッシュは静かに迎え入れた。 【ごめんなさいごめんなさい悪気はなかったんです(なお悪いだろ)座談会】 シエラ 「………………」 ナッシュ「………頼むから、黙ってないでなんか言ってくれ………」 シエラ 「ほぉ。わらわに何を言えと?」 ナッシュ「わぁぁぁぁっ、おれに怒っても仕方ないだろ! だからその手の電撃を止めろ!!」 間。 シエラ 「……………ほんに、呆れてものも言えないとはこの事よの。(溜息) 以前にわらわが登場した時もあまりに勝手な話にどうしてくれようかと思ったが、 今後事実がはっきりしたらどうするつもりじゃ、あの馬鹿は。」 ナッシュ「(ぷすぷす)…それも一人で勝手に玉砕するならともかく100SS企画の第一弾だしな…」 シエラ 「どちらにせよわらわを愚弄する者には死あるのみじゃ。(きっぱり) ………ところでおんし、今年いくつになった?」 ナッシュ「え…………………37、です。」 シエラ 「わらわを勝手に『カミさん』呼ばわりしながら、銀の乙女を口説こうとしているらしいの?」 ナッシュ「は、ははは……どうせならモデルがいた方が信憑性が出るかな、と……。(後ずさり) い、言っておくがここでのおれはクリスに本気のおれとはまた別人だぞ!! あくまで番外編、敢えて言うならクリスが疾風の騎士殿とくっついた時、 もしくは片想い止まりの時のおれというか……作者は最初そのつもりだったらしいが、 なにぶん更に10年経ってるしクリスは充分いい女だしでおれの心境にも変化の可能性が なきにしもあらずというか……(←微妙←おい)」 シエラ 「ユミィとかいう女子にもちょっかいを出してるらしいが。(にこり)」 ナッシュ「………………(汗)」 シエラ 「久々におんしの血を味わってみるか……(にじり寄る)」 ナッシュ「…………いっそひと思いに殺ってくれよ…………(涙)」
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