【逆転居酒屋】 「ほら、もっと飲みなさい! 気合いが足りないわよ、なるほどくん!」 「…勘弁して下さいよ千尋さん…。ここに来てからどれだけ瓶を空けてると思ってるんですか。」 8月3日 午後10時12分 居酒屋「のんだくれ」。 ここはオフィス街からも繁華街からも少し離れた場所にひっそりと佇む居酒屋である。 決して広くはない純和風の店内に、いかにもバリバリのキャリアウーマンといった感じのハツラツとした若い女の声と、いかにも安月給のサラリーマンといった感じのなんとも情けない男の声が響く。 美味い料理を出すが知る人ぞ知る穴場でもあるこの店の主人は仕事柄顔の広い女の知人でもあるらしく、酒のつまみを作りながらカウンター席に並んで座る男女の会話に笑みを浮かべた。 胸元の大きく開いた大胆なレディーススーツをびしっと着こなした女は100人中99人が美女と評するだろう容姿をしており、相手の男の方も個性的な髪型とがっちりした体格もあってそれなりに見栄えのする男ではあるが(それが青いスーツに似合うかどうかは意見の分かれるところだろう)、どう贔屓目に見てもこの二人の雰囲気は逢瀬を楽しむ恋人同士といった甘いものではない。 女──綾里法律事務所所長・綾里千尋は隣に座る部下の背中をどん、と叩いた。 「何言ってるの。5本くらい、飲んだうちに入らないわよ。今日は私のオゴリなんだから遠慮せずにどんどんやりなさい。」 「5本って…そのうち1本はビールじゃなくて日本酒の一升瓶じゃないですか…」 思いっきり叩かれた反動でごほごほと咽ながら、更に情けない声を出す男──成歩堂龍一の額には玉の汗が浮かんでいる。 ビール(大瓶)4本に日本酒一升。焼き鳥やら枝豆やら厚揚げやらの各種つまみ。 殆ど千尋が飲んだとはいえ、確かに短時間に二人だけで消費するには厳しい量である。 知られざる上司のウワバミっぷりに狼狽する部下の様子に千尋はひとしきり笑うと、目を細めた。 「まぁいいわ。今日はなるほどくんのお祝いだもの、これくらいで許してあげましょう。」 「あ、有難うございます!」 ヘンに力を込めて礼を言う成歩堂の姿がまた可笑しくて。彼らしくて。 千尋は自然と口元を綻ばせた。そして大きく、息を吐く。 「本当…今日はよくやったわ、なるほどくん。」 今日は、成歩堂の初舞台だった。───弁護士・成歩堂龍一としての。 千尋の経営する綾里法律事務所に彼がやって来てからまだ3ヶ月。 資格はあるとはいえ実際の弁護の経験ゼロという新人以外の何者でもない彼が初めて受け持ったのは、なんと殺人事件だった。 そして彼は今日開かれた法廷で被告人である矢張政志の無罪を勝ち取り、真犯人まで挙げてしまったのである。 はっきり言って前代未聞、なかなかできる事ではない。 「はは…実は未だに実感湧かないんですよ。」 照れたように頭を掻く成歩堂。 こういった行動を普通にやってのける彼は、雰囲気だけ見れば23歳という年齢より幼く見える。 スーツ姿でなければそこらの大学生の集団に苦もなく混ざれるだろう。 法廷での堂々とした態度(開き直りとも言う)とは正反対の顔。 「そうなの?」 「ええ。事務所に帰れば、所長の『特訓』の続きが待ち構えてるような気がします。」 「ふふふ…お望みならば私は構わないけど?」 「い、いや、お気持ちは有難いですが遠慮しときますっ。」 自分で話を振っておきながら慌てて手を左右に振る部下に千尋は再び声を上げて笑った。 特訓とは昨夜の勉強会の事だ。 事務所の通常業務終了後、初めての法廷に気合いを入れさせる意味も兼ねて。 可愛い部下に今回の事件の概要からあらゆる法廷マニュアルまで徹底的に叩き込んだのは、記憶に新しい。 ───まぁ、竹刀はちょっとやり過ぎだったかなと思わないでもないけれど。 …あれはあれでこっちのストレス発散にもなって、楽しかったとは言わないでおこう。 千尋の思惑を知ってか知らずか、成歩堂はゆっくりと言葉を続けた。 「今日は自分でもホントいっぱいいっぱいでしたから。だから終わっても実感ないんですよ。」 「…そうね、初めての法廷だもの。無理もないわ。」 それも事故や自殺と疑う余地すらない、完全なる殺人事件。 ちょっとした民事裁判ならともかく、本来ならば弁護士資格を取得したばかりの人間が扱うべき事件ではない。 それだけデリケートなのだ。人の命を扱う事件というものは。 そして弁護士としての信用問題もある。 弁護士としての信用…それは知識よりも経験と結果がものを言う。 良きにせよ悪きにせよ、それらが全てだ。 弁護士バッジなど形式に過ぎない。 どんなに素質ある優秀な人材でも、長い年月をかけて経験を積んで初めて一人前と認められる。 例えるなら。誰だって免許とりたて・若葉マークの若者よりは何十年も無事故無違反・ゴールドカードのタクシードライバーの車の助手席に座りたいと思うだろう。 殺人事件ともなれば罪は最大級に重い。 被告人は弁護人に己の命を預けるに等しいのだ。 地方裁判所の上に高等裁判所があるとはいえ、有罪か無罪かで今後の人生が大きく左右されるのだから。 それが今回に限って新米弁護士に弁護の依頼が持ち込まれたのは─── 「でも、ぼくは矢張を助けたかった。」 被告人・矢張政志が成歩堂の友人であったからに他ならない。 一言一言、噛み締めるように言葉を紡ぐ成歩堂。 成歩堂の言うには、矢張は小学校時代からの大親友で「ある意味、成歩堂が弁護士の道を選ぶきっかけを作った恩人」らしい。 それがどういった経緯なのか千尋も興味はあるが、いつか話してくれると約束したのだから今は彼がその気になるまで楽しみに待とうと思う。 とにかく、成歩堂にはこの依頼を断るという選択肢は最初から存在しなかった。 新米弁護士である自分を信じて指名してくれた友人の為にも。 「は…はは…。情けないけど、なんか、今になって震えがきますよ…」 やがて消え入りそうな声が千尋の耳に届いた。 これが昼間、法廷であれだけ堂々と啖呵をきっていた男と同一人物なのか。 木目のカウンターに肘をつき、目の前で両手を握り締める男の肩は小刻みに震えている。 じっと前を見つめる彼の横顔にはさっきまでの明るさはなく。悲壮な空気さえ感じさせる。 千尋は黙って彼の次の言葉を待った。 「信じていた。ぼくの知っている矢張は殺人なんかできる奴じゃないって。でも、いざ法廷に立って。本当にぼくにそれが証明できるのかって…自分の力を信じきれなかった。──実際、諦めかけた。ぼくが諦めたら、矢張の人生はめちゃくちゃになるって判ってたのに。あの時千尋さんが背中を押してくれなかったら、ぼくは…」 証拠品であり凶器でもあった【考える人】の置き時計。 それが「事件当日も2時間遅れていた」のを辛うじて証明できたのは、閉廷直前だった。 一度は閉廷しかけた裁判を千尋の一言が繋ぎ止めた。 「───ぼくは、正直言って怖い。これからも弁護士としてやっていけるのかって。ぼくなんかが他人の人生を背負う事ができるのかって……」 ………………。 ………………。 ………………。 スパ────ン!! 「でっ!」 成歩堂のギザギザ頭に勢い良くスリッパ(店の備品)を振り下ろして、千尋はにこりと笑ってみせた。 「ち…千尋さん…?」 よほど効いたのか涙目でこちらを見上げる部下──未熟な弟子を仁王立ちのまま見下ろして、ぴしゃりと言い放つ。 「トイレ用じゃなかっただけ、良かったと思いなさい。」 「いやそうじゃなくて…何故スリッパ…ドコから…」 小さくツッコミを入れる男を無視してスリッパを元あった場所に戻すと、千尋は言葉を続けた。 「誰もあなたに多くを求めてなんかいないわ。だいたい法廷で、『喋ってるうちに、よく分からなくなってきました!』なんて堂々と嘯く新米弁護士に何を求めるって言うの。なるほどくん、何様のつもり?」 「う。」 それは「犯人が聞いた時報は置き時計のものだった」のを証明する時に成歩堂が実際に言った台詞である。 全くもって事実なので反論もできず、喉を詰まらせる成歩堂。 ───あの台詞を聞いた時は、裁判長だけでなく千尋だってどうしてくれようかと頭を抱えたものだ。 忘れたくても当分忘れる事はできないだろう。 ある意味ハッタリが命の商売とはいえ、ものには限度がある。 「あなたは弁護士である以前に一人の人間なんだから。悩んだっていい。苦しんだっていい。ただ、その時その時で自分にできる事、やるべき事をやればいいの。そして今日は、自分にできる事を精一杯やって、その結果として無罪を勝ち取った。自分を過信して傲慢になるなんて論外だけど、自分のやった事には誇りを持ちなさい。でないと今日の法廷に立ち会った全ての人に対して失礼よ。」 千尋は椅子に腰を下ろし、ぽん、と青いスーツの肩に掌を乗せた。 「最初から完璧な人間なんて、何処にもいない。ましてや人間は一生かかっても完璧になんてなれない。ずっと、勉強なの。」 我ながら月並みで陳腐な台詞だと思う。 それでも千尋はこの青年に期待している自分を何処か他人事のように認識していた。 今回の仕事は傍から見れば無謀とも思えた依頼だったが、千尋の後押しがあったとはいえ他でもない彼がこの事件を解決してみせたのは紛れもない事実。 有望な青年にこんな事で潰れて欲しくはなかった。 ───華やかに見られがちだが、弁護士の仕事は綺麗事ばかりではない。 今日の判決の後、「弁護士にできるのは、被告を信じる事だけ」とは言ったが、被告人の無実を心底信じればそれで全てが上手くいくというものでもない。 今回はたまたま無実だったが、容疑者として挙げられているからには何かしらの理由があり、真実犯人である事だって多々あるのだ。 被告人の無実を信じて証拠を固めれば固めるほど、有罪なのがはっきりしていく。 この時ほど、辛いものはない。 被告人がどんなに汚い事をしているのが分かっても。非道な事をしているのが分かっても。 それが仕事である以上、弁護士は被告人を弁護しなくてはならない。 検察側の証拠に対し、重箱の隅をつつくように異論を唱える。判決を引き延ばす。 被害者の家族に涙混じりになじられ、恨まれるなんてのもザラだ。 弁護士という職業に夢見る何処までも真っ直ぐなこの青年にとって、それは苦痛でしかないだろう。 それでも期待せずにはいられない。 彼ならやってくれると。 これは、直感。 「それに───どういうきっかけがあったにせよ、弁護士の道を選んだのはあなた自身でしょう?」 千尋の言葉に。今までにないくらい、成歩堂の目が見開かれた。 ───どうして自分はここまで彼に入れ込むのか。 それはまだ、考える時ではない。 自分にはそれより先にしなければならない事がある。 決着をつけなくてはならない事が。 千尋が倉院の里を飛び出し、フェアじゃないからと「綾里でもずば抜けた力」を封印してまでも弁護士になったのはその為なのだから。 でもきっと、もうすぐ。 もうすぐ、その答えは出せる。 それがどんなに辛い真実に繋がっていようとも。 「…千尋さんも…一生勉強、ですか?」 「当たり前よ。」 信じられないとでも言うように目を瞬かせて問う成歩堂に、千尋は微苦笑でもって答えた。 カウンターに置かれたままだったコップのビールを一口煽る。 少しぬるくなった苦味が舌に残った。 出会った頃からこの青年は自分をオールマイティのスーパーマンだか何だかと勘違いしている節があったが、あながちその見解も間違いではなかったらしい。 確かに、綾里法律事務所には現在所長である自分と成歩堂の二人しか所員がいない。 新人が先輩を手本とするのはどの業界でも同じだろうが、手本となる相手が一人しかいなければ他を見る事もできないのは当然。 …もしかしてこれは鳥のすり込みと同じではないだろうか? 雛が最初に見たものを親と思って後をつけるのと同じ現象。 (……こんな大きな子供を持った覚えはないんだけど。) よくよく思い出せば、千尋の成歩堂への接し方もヤンチャな息子を見守る母親のようだと思えなくもないのがまたなんとも言えない。 青年が素直に慕ってくれるのは嬉しいし、可愛いとも微笑ましいとも思うが。 (せめて、姉弟くらいに留めておきたいわ……) 妙齢の女性としては、心の中で溜息くらいついても仕方ないだろう。 「……だったら。」 「?」 どれくらいそうしていただろう。 ふいに。隣の席でまだ何かを考え込んでいたらしい成歩堂が、ぱっと顔を上げた。 彼なりに答えが出たのだろう。 さっきの沈んだ表情とは明らかに違う。 きらきらと子供のように輝く…それでいて「大人の男」としての強い光を宿した目を真っ直ぐに向けられ、辛うじて表情には出さなかったものの、千尋は一瞬うろたえた。 初心な少女でもないのに、どきりと心臓が跳ねる。 「今はまだ、全然だけど。千尋さんに頼ってしまう事もあるかもしれないけど。──ぼくは千尋さんに追いついてみせます。そしていつか必ず追い越してみせます。千尋さんの一生には負けません。この道を選んだのは、ぼくだから。」 きっぱりと。眩しい笑顔と共に放たれた言葉。 受け取り様によっては上司に対しての宣戦布告とも言えるもの。 「……………」 ふっ、と。 千尋の顔から静かな笑みが零れる。 ああ。やっぱり。 彼なら、大丈夫。 彼なら、何があってもやっていける。 それだけの強さがある。 ───例え、自分がいなくなっても。 でも。 「────100年早いわよ、なるほどくん!!!」 「うわぁぁぁぁ!? ぎ、ギブギブ───ッ!!」 「ちょ、ちょっと千尋ちゃん、お兄さんのカオ真っ青だよ! 泡噴いてるよ! 頼むから師弟のスキンシップは余所でやってくれ!!」 ───その後。 見かけよりもずっと力のある腕と見かけ通り重量のある胸を利用した見事な締め技によって成歩堂が完全にオチるまで、1分とかからなかったのは言うまでもない。 ───なるほどくん。 私はずっと、あなたを見守っているから。 ずっと────……… 【本気で久々なのに何故シリアスちっくになったんだよ逆裁座談会】 真宵「こんちわ〜。本文には出てこれなかったのでこっちで登場のヒロイン真宵です☆ もう、お姉ちゃん達だけ美味しいもの食べに行ってズルイよ〜。 味噌ラーメン食べに行く約束も守って貰えなかったしなぁ…(しんみり)」 千尋「そうだったわね…あの時はごめんね、真宵。 大丈夫、ラーメンはなるほどくんが連れてってくれるから。(さらり)」 真宵「ん〜仕方ない、ここはなるほどくんで折れるか…その代わり大盛り2杯だからっ! それにしても以前に作者がよろず部屋で出した逆裁SSと全然雰囲気が違うよね、コレ。」 千尋「そうねぇ。どちらも突発ものとはいえ、あちらはオールキャラの完全ギャグだったし。」 真宵「ていうか『異議あり!』って叫ばないなるほどくんはなるほどくんじゃないよ。」 千尋「一応、コレも当初の予定ではギャグで纏めるつもりだったらしいんだけど。 リクエスト通りを目指して生身の私(笑)を主役にした事によって路線がズレたらしいわ。」 真宵「リクエスト? お姉ちゃん×なるほどくん? …全然それっぽくないよ?」 千尋「結局『目指しただけ』になったらしいわ。詐欺容疑で捕まっても作者は文句言えないわね。」 真宵「あはは。どっちにせよ、なるほどくんにお姉ちゃんと張り合うだけのカイショーなんかある訳ないよね〜。」 千尋「ふふふ、それもそうね。(にこ)」 成歩堂「(………ぼくの存在価値って………(涙))」 いやはや。逆裁SS第二弾となった訳ですが、 |