【釦(ボタン)】 ふっ、と。 空気が動いたような気がして、クリスは意識を暗闇から浮上させた。 自慢にもならないが、クリス・ライトフェローは幼い頃から朝に弱い。 一旦深い眠りにつくと大抵は誰かに起こされるまで目を覚ます事はなかった。 それは大人となり騎士となった今でも同じで、毎朝決まった時間にわざわざ起こしに来てくれるルイスには本当に申し訳ないと思う。 しかし彼に放っておかれたら昼近くまで寝ているのもほぼ確実で。 流石に戦地で野営した時などは深く眠る事もできないので自然早起きとなるが、その分ベッドでゆっくり眠れる時にはとことん眠る癖のようなものができてしまっている。 ルイスが里帰りしていた為にうっかり朝の会議に遅刻してしまったのも一度や二度ではなく、その度にサロメに溜息混じりに呆れられたものだ。 だけど今は何の抵抗もなく、まるでそれが当たり前のように目が覚めた。 横向きにベッドに転がった姿勢のまま瞼を薄く開いてみると、ここ数ヶ月クリスの寝室となっている古城の壁がぼんやりと目に映る。 年代を感じさせる木目の壁。 落ち着いた色合いだが、こちらの壁はベッドに直接接しているせいか少し圧迫感がある。 (こんなところに傷があったんだ…ベッドを運び入れた時にでもぶつけたのかな…) どうでもいい事に気が付いた自分に心の中で苦笑する。 カーテンが閉められているとはいえ、この暗さからするとまだ日は昇っていないらしい。 それでも完全な闇ではないところを見ると日の出の半刻前といったところか。 どうりで外も静かな筈だ。 春先とはいえ明け方はまだまだ寒いこの季節、素肌を覆う掛け布団の向こうはさぞ寒いに違いない。 その時。 ぎし、とベッドがごく微かな音を立てた。 やはり先程感じた気配は、気のせいではなかったらしい。 反射的にクリスの身体が緊張で強張る。 そのままぎゅ、と目を瞑った。 起きているのに。 それを隠す必要はないのに。 後ろを振り向く事が───動く事が、できない。 続いてクリスの背後で掛け布団が僅かにめくり上げられたのが分かった。 今まで傍に感じていた男の温もりが、外気に晒されて霧のように掻き消える。 クリスが風邪をひかないようにとの配慮なのだろう、すぐに布団は戻されたが、それは元の温もりを取り戻すには至らなかった。 ───それが、酷く寂しい。 ぺた、と素足が床を這う音。 ごそごそと、散らばった衣服を集める音。 それらを身に纏う音。靴紐を締める音。 時々金属特有の音が混じるのは、彼の十八番である特殊な武器を装着しているのだろう。 背中の向こうから微かに聞こえる、それらの音のどれもがとても小さくて。 本気で集中しないと聞き逃しそうなものばかりだ。 以前から気配を殺すのが上手い男だったが、クリスを起こさないよういかに意識しているかが伺える。 実際本当にクリスが眠っていたとしたら、まず起きる事はなかったに違いない。 彼はきっとこのまま、クリスに何も言わずに部屋を出て行くつもりなのだろう。 何事もなかったかのように。 『ちょっと、野暮用があるんだ。出発する前にクリスにだけは言っておこうと思ってね。』 昨夜遅く、いつもの飄々とした笑顔を浮かべながらこの部屋に現れた金髪の男。 追い返そうと思えば追い返せたのに、成り行きのように迎え入れてしまっていた自分。 彼がこの部屋で夜を過ごしたのはこれが初めてではなかったけれど。 (…………………馬鹿。) 男の事を考えるだけで、昨夜の熱が肌に甦えりそうになる。 それがなんだか無性に悔しくて。腹立たしくて。 そんな自分が女々しく思えて余計に沈む。 騎士として。団長として。───ゼクセンの英雄として。 今までクリスの近くにいた人達の殆どは、クリスをただの一人の女としては見なかった。 本来は男社会である騎士団の中で彼らと対等になるには「女」は余計なものであったから。 だから自分も極力意識しないようにしていた。 評議会の無茶な要求に愚痴をこぼす事はあっても、基本的には剣の事だけを。 仕事の事だけを考えていれば良かった。 自分にもこんな感情があるなんてつい最近まで知らなかった。 『馬鹿』なのは、男ではなく……自分。 判っていた筈なのに。 彼が、ずっと自分の隣にいられるという確証など最初からありもしなかったのに。 ───それでも後悔しないって決めたのに。 プツッ。コン。ポトン。 唐突に、不可解な音が静まり返った部屋に響いた。 身体を強張らせたままきつく目を瞑るクリスの間近で響いた、ごく軽い音。 同時に背後の男が息を呑んだような気配がした。 (………?) 時間が止まったかのような静寂が落ちる。 おそるおそる目を開けて視線だけ動かしてみると、ベッドの上──枕に埋めたクリスの顔のすぐ脇に、さっきまでなかった物体が転がっていた。 薄暗い中でも微かに見覚えのあるそれは。 (…ボタン?) 深い緑色の、親指の先くらいの大きさの釦。 確かこれは男の上着の袖の折り返し部分に付いていたものではなかったか。 隠し武器を得意とする彼だが、この釦そのものは針が仕込まれている訳でもなく、何の変哲もないようだ。 但し生地に縫い付けられていたと思われる糸が僅かに残っており、それがたった今何かに引っ掛けたかのように不自然に千切れている。 …つまりは、そういう事なのだろう。 何事にも抜け目ないようでいて実はツメの甘いところのある彼らしいというべきか。 もともと糸が緩んでいたのかもしれないが、うっかり引っ掛けて飛ばしてしまった釦がたまたまベッドに横たわるクリスの目の前の壁に当たって落ちる確率というのは決して高くはないだろう。 仲間内で最も運の悪い男と言われるだけはある、と変なところでクリスは感心してしまった。 彼は、釦がここにある事に気付いているのだろうか。 ここにある事に気付いたのなら、どうするのだろうか。 クリスを起こすかもしれない危険を冒して取りに来るか。 釦くらいと諦めてさっさと出て行くか。 それとも。 再び、目を閉じる。 ぴくりとも動かせない身体に対し、心臓の音がやけに煩い。 まるで敵地のど真ん中で一人岩陰に身を隠しているような、奇妙な緊張が走った。 コツ、コツ、と。 一瞬の間を置いて靴音がベッドに近付いてくる。 執務室兼寝室とはいえそう広くもない部屋だ。 彼はもう、すぐそこにいる。 膝をついたのだろう。 二人分の体重を受けてベッドがみしりと軋んだ。 背後に感じる人の気配。 ───彼の、匂い。 ふいに。 枕に接していない方のこめかみに、軟らかいものが落とされた。 それが男の唇だったと気付いたのは彼の吐息を耳元に感じてから。 思わず息を呑みそうになるのを辛うじて抑える。 「───おれが戻ってくるまで、ちゃんと預かっててくれよ?」 ───次いで囁かれた言葉に、クリスは今度こそ観念したのだった。 「………本当に、勝手な奴だ………」 カチャリと古い木製の扉が閉まった音に僅かに遅れて。 やっと瞼を開いたクリスは、ベッドの上でごろりと寝返りをうつと大きく息を吐いた。 もう、この部屋にはクリス以外誰もいない。 無駄な緊張ですっかり強張ってしまった腕をそろそろと動かす。 隣にぽつんと残されたものを探り当てると、指先で摘んで天井に掲げた。 つるつるとして丸い、小さなそれ。 カーテンの隙間から洩れる微かな明かりが、只の釦を何かの宝石のように不思議な色合いに光らせた。 「………あいつの瞳みたいだな。」 あの気障な中年男を待っててやる義理はない。 ゼクセンとグラスランド共通の『敵国』ハルモニアの特殊工作員である彼が、敵地の中心であるこの場所に戻ってくるなんて、普通なら考えられない。 こんな釦ひとつが何の約束になるだろうか。 ───だけど。 ぎゅ、と釦を掌に握り締めると。 クリスは自分も朝の身支度をするべく勢いよくベッドから飛び降りた。 銀の髪がさらりと揺れる。 何処までが偶然で。 何処までが故意なのかは判らないけれど。 ───今はこれを信じてみるのも悪くないかも、しれない。 【梨栗だけど路線が違うよどうした座談会】 クリス「……なんなんだ、これは。(ジト目)」 作者 「うーん。SSというよりポエムに近いのかなぁ。梨栗話としてはかなり短いし。 お題に合わせてたまにはシリアス系の恋愛を目指そうとして玉砕したというか…。 あ、例によって続き物じゃないので、珍しくこの二人は既成事実ありです。 いやー、事前より事後を先に書く事になるとは思わなかったよ(笑)。 初めてでサヨナラじゃあんまりだしそれはそれでいつかもっとイロイロ書きたいので、 たぶんコレは3度目くらいかと。どうせだから18禁指定かけようかとも思ったけど、 最終的にシーンそのものは入らなかったんでそれはなくなりましたわ。ちょっと残念。」 クリス「……………」 作者 「因みに敢えて文中に書かなかったけど、ナッシュは最初からクリスが起きてるのに気付いてます。 この男がクリス如きの狸寝入りに気付かない訳ないっしょ。まだまだ甘いね、クリスちゃん。」 クリス「……………」 作者 「ついでに言うと、最初思い浮かんだネタは梨栗でも全然違うものだったのよ。 部屋でお茶してたらナッシュの釦が取れて、それをクリスが四苦八苦して縫い付ける、みたいな。 クリス不器用ネタは前に散々使ったんで今回は結局止めたんだけどさー。 つーか冗談抜きで釦ひとつ縫い付けられそうにないし。絶対ナッシュが自分でやった方が早い。 美人で強い設定なのにここまでお間抜け&不器用が似合うキャラも珍しいよ、マジで。」 クリス「……………」 作者 「わ、待てクリス! 早まるな! だからその右手の紋章を止めろ────!!!」 珍しく梨不参加のまま、座談会強制終了(笑)。 またまたやっぱりというか、100企画第6弾も梨栗でした。 |