【旅路】





───なんでかなぁ。



それが、私こと有馬麻里亜の脳裏に浮かんだ最初の言葉だった。
 





 ここは古の都京都の中心、御所に面した場所に位置する我らが英都大学構内の中庭である。

但し便宜上中庭と銘打ちはしたが、実際は校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の間に申し訳程度に緑があるという類のものだ。

学生の往来の激しいコンクリート張りの廊下からは外れているので人の波に呑まれるという事はないものの、喧騒は絶えず耳に入ってきて、とてもじゃないが落ち着いた雰囲気の場所とは言えないだろう。

おまけに日差しを遮る屋根もないので、夕方近いとはいえ容赦なく降り注ぐ真夏の太陽光線が痛いくらいだ。

つい十分前までクーラーの効いた教室にいたので余計にそう思う。

 何故こんな場所で私が途方に暮れて立ち尽くす事になったかと言うと、目の前の人物に呼び止められたからに他ならない。

つまり本日の講義が無事終了し、さてこれからいつもの場所へ……と教室を出たところで「ちょっと時間、いいかな?」という何処かで聞いたような台詞と共に教室から程近いここまで半ば強引に引っ張られてしまった訳だが。



───せめて、アリスが隣に居れば捕まらなかったかも。



 たまたま昨日から夏風邪をひいて講義を休んでいる同級生の一見のほほんとした笑顔を思い浮かべ、理不尽と判りつつも内心溜息をつく。

それからつい先程「東京出身の法学部4回生・荒川博史」の名乗った青年を見やった。

ブランドもののシャツにジーンズ、明るく染めた茶髪。

手首にはこれ見よがしの高級腕時計が光り、いかにも今時の若者風の喋り方と自信に溢れた表情。

ルックスは女受けしそうなそこそこ見栄えがする造りをしていて、それを自分でよく理解している。

…はっきり言って、これだけで私の苦手とするタイプである。



「だから、ずっと前から気になっていたんだ。俺と付き合って損はさせないって」

「…えーと。何度も言うようにお気持ちは嬉しいんですけど…」




 要するに、そういう事だ。そして私の答えは考えるまでもない。

そもそもたった今まで顔すらまるで覚えのなかった男性に、どうやって好意を抱けと言うのだろうか。



───どうして、話をした事すらない私を好きだと言えるのだろうか。正直理解に苦しむ。



 よくドラマや三文恋愛小説で一目惚れだの何だの言っているのは目にするが、私は昔からこうだった。

お姫様に一目惚れして速攻で結婚を申し込む王子様なんて、御伽噺だけで充分だと思う。

その人間の内実を殆ど知らずにどうして好きになんかなれるのだろう。

知り合って友人から恋人へ、というのならまだしも見掛けだけで生まれる愛なんて冗談ではない。

御伽噺は結婚してめでたしめでたしで終わりだから許されるのだ。あったとしてもせいぜい「末永く幸せに暮らしました」の一行だけで、その後二人がどうなったかなんて殆ど描かれていないのだから。

 好きになるのに理由なんてない、マリアは殺伐とした推理小説ばかり読み漁ってるからそんな風に考え込んでしまうんだよ、と昔冗談混じりに同級生の女の子に言われた事があったのをぼんやりと思い出してしまう。

 しかし荒川という男はよほど己に自信があるのかこんなにあっさりと断られると思っていなかったらしく、更に食い下がってきた。

おそらく何人もの女の子をその舌先八寸で落としてきたに違いない。




「それってさ、やっぱりいつも一緒にいるあり…ナンとかって奴と付き合ってるから? 噂には聞いてたけど」

「…いつも一緒って訳じゃないですよ、アリスとは。同じサークルの友人ってだけでそんな関係じゃないですし」



 いっそそういう事にしちゃった方が説明も楽なんだけどな、と半分本気で思いながらもアリス本人の知らぬところで彼に迷惑を掛ける訳にもいかず。

律儀に相手の言葉を訂正しながら、私は苦笑を浮かべずにはいられなかった。





 自分で言うのもなんだが、どうも私とアリスこと有栖川有栖は噂好きな一部の学生達の間でそのように見られているらしい。だからこそ、先程の「アリスが居れば」という発想も浮かぶのである。

 確かに私達は同じ学部の同じ学年に属しているから選択科目も共通のものが多く、有栖川と有馬だから学籍番号順に並べば席も近い。実際それが最初の出遭いでもあった。

加えてこの春から私達には英都大学推理小説研究会略してEMC所属という大きな共通項がある。     

 よって彼と一緒にいる時間は他の女子学生よりは遥かに多いとは思うが、だからといって特別な関係であると考えるのは早計というものだ。

今まで何度、アリス狙いの女子学生から事の真相を問われただろうか。



───男女間にだって友情は有り得る。良くも悪くも。





「サークル?」

「…推理小説研究会です」

「そんなの、ウチの大学にあったんだ?」

「……………」



 ヒトの事を好きだ、ずっと見ていたと言っておきながらそんな事も知らないのか。

もはや呆れるを通り越して感心してしまう。



「だったらいいだろ、試しに俺と付き合ってみなよ。そんな非生産的なマイナーサークルに入ってる男と付き合うより絶対得だって。前にちらっと見た事あるけど、ひょろっとして全然パッとしない奴じゃん。どうせ頭でっかちで理屈を捏ねるしか能がないんだろう? 俺、こう見えても上場一部企業に就職決まってるんだぜ。親父も弁護士だし、将来性ばっちりだと思うけど?」



 その非生産的なマイナーサークルに私も入っているんですが。

メジャーじゃないのは認めるけどね、とぽつりと心の中でツッコミを入れる。

目の前の男の古都に不似合いなイントネーションがますます鼻について聞こえた。

 まったく、初対面の人間に親の職業まで紹介してどうするのだろう。

失礼ながら、この様子だと就職内定というのも実力というよりコネの可能性が高いのではないだろうか。



───それより何より許せないのは。



 私はひとつ息を吐くと、真っ直ぐに相手を見返した。これ以上無駄に時間を潰していても仕方ない。



「せっかくですが、やはりお断りします。私と彼が付き合ってる付き合ってないは別にしても、よく知りもしないで他人を卑下するような人とは一生価値観が合いそうもないので」



 あくまで顔には笑みを残したまま、キッパリ言い切ってやる。ぺこりと頭を下げ、その場を後にしようとして。



「…っ待てよおいっ! 人が下手に出てりゃ……」



 理解するまでの一瞬、動きを止めた男が我に返って私の肩に掴み掛かってきた。



「や…っ」



 しまった、計算外だった。まさかこんな人通りのある場所でこういう人目を気にするタイプの男が女の子に手をあげるとは思わなかったのだが。



「……………?」 



 私は反射的に腕を掲げて身を竦め───そして何の衝撃もやって来ないのに疑問符を浮かべた。

恐る恐る腕を下ろして目を開ける。と。



「ウチの可愛い女子部員に手をあげるなんて、ええ根性してるやないか?」

「え、江神さんっ!」



 いつの間に現れたのか。そこには荒川の腕をしっかりと捕らえた江神二郎部長の姿があった。

少しウェーブのかかった長い髪が逆光の中で揺れている。



「な、何だてめぇはっ」

「非生産的なサークルの部長や。野暮とは思ったけど、大切な部員の危機を黙って見てられるほど人間捨ててはおらんからな」



 どうやら話を聞いていたらしい。江神さんは腕を掴んだまま荒川を静かに睨み付けてみせた。

今年で在学7年目になるからというだけでは言い現せない大人の男性の落ち着いた雰囲気プラス怒鳴ったりしない分、却って迫力がある。

普段肉体労働系のアルバイトをこなしているだけあって、白いTシャツから伸びる腕も見た目よりずっと逞しい。

 本能的に敵わないと悟ったのか荒川は乱暴に江神さんの腕を振り払うと、私の方をちらりと見て言い訳をする子供のように虚勢を張った。



「だ、だいたい俺は今すぐどうこうしようって言ってたんじゃないんだぜ。部長だか何だか知らないが、トモダチになるのまで止める権利がてめぇにあるのかよっ」



 普通手をあげようとした時点でトモダチ候補もアウトだろうという常識はこの男にないらしい。

江神さんは呆れたように肩を竦めてみせた。



「…益者三友、損者三友」

「え…なんだ?」

「『論語』や。付き合って有益な友は三種類あり、有害な友も三種類あるって意味やな。因みに有益な友は正直者、誠実な人、博学な人で、有害な友は不正直な人、不誠実な人、言葉が巧みな人を指す。…まさか中国の四書も知らないなんて言わへんよな?」

「………っ」



 途端、荒川は顔を赤くして声を詰まらせた。

何かを言い掛けてそのままくるりと背中を向け、逃げるようにこの場から走り去る。

そしてその背はあっと言う間に学生達の渦の中で見えなくなり、後には冷めた目でそれを見送った男女二人が残されたのだった。
 







 ふう、と私は大きく安堵の息を吐くと、改めて救世主を見やった。



「有難うございます、江神さん。助かりました」

「こっちこそ悪かったな、立ち聞きする気はなかったんやけど」

「いえいえ本当に感謝してます」

「それは良かった」



 にこりと微笑む江神さんにつられて私も笑う。

本当に、この人は人を安心させる名人だ。理想のお兄さんが実在するとしたらこんな感じなんだろうか。

 カッコ良くて、優しくて、凄く頭が切れて。

私がアリス経由でEMCに入る前の話なので詳しい事は知らないけれど、かつてアリス達が巻き込まれた山中の連続殺人事件では探偵顔負けの見事な推理で犯人を突き止めた事まであるらしい。



───時折…ごく稀にふと見せる淋しげな表情さえ知らなければ、この人ほど完璧な人はいないと思う。



 優し過ぎるくらい優しい、江神さん。

それ故に他人を一歩離れたところから見ているという印象を受けるのは果して私だけなのだろうか。

今更ながらそんな事を考える私を余所に、江神さんは子供に対するように私の頭をぽんぽんと掌で叩いた。



「それにな、俺かてマリアに有難うって言いたいんや」

「? なんでですか?」

「本気で怒ってくれたやろ」



 俺の代わりに、とでも言うように笑う江神さんに私はわざとらしく溜息をついてみせた。



「本当に、江神さんはアリスに甘いんですから。私はアリスだけじゃなくて、EMC全体に対する偏見を許せなかっただけですよ?」

「うん、判ってる。だから有難う、や」

「そういう事にしときましょう」





 たぶん、そういう事なのだろう。

この人は自分の中の足りない何かを彼──アリスの存在で救われているのを自覚していない。

いや、自覚していない振りをしているのか。

 のほほんとしているようで芯はしっかりしているアリス。今時珍しいくらい真っ直ぐで純粋なアリス。

男女で抱くような感情とは少し違うかもしれないけど、確かにアリスの存在は私達の中で大きいのだろう。
 
 まったく。アリスといい江神さんといい、私の周りには内外共に魅力的な男性が多過ぎる。

だから余計に、顔も知らない男性に興味を覚える事ができなくなるのだ。

こんな環境も場合によっては良し悪しかもしれない。




「──真の友は最大の財産であり、またもっとも得難い人である……ですね」

「お、ラ・ロシュフコーの『箴言』やな。流石はマリア」

「部長こそお見事です」

「はは、これじゃ確かに頭でっかちとか言われても仕方ないかもしれへんなぁ」

「ですねぇ」



 江神さんに倣って世界の名言で対抗すると、あっさりと出展を当てられた。お互い、顔を見合せて笑う。




───だけど今は、これでいいのだろう。




「それじゃ、行きましょうか」



 止まっていた時間が動き出す。素足に履いたサンダルの下で踏みしめた雑草が揺れた。



「マリア? そっちは…」

「アリスのお見舞いに行くのに手ぶらじゃ寂しいでしょう。そこのお店で何か買ってからモチさん達と合流ってのはどうですか?」



 私の唐突な提案に僅かに目を瞬かせた江神さんは、次の瞬間には目を細めた。

そして私の後ろをゆっくりと歩き出しながら陽の傾きかけた空を見上げる。



「…そうやな、アリスもそろそろ退屈してる頃やしな。ミステリ雑誌の新刊でも持って行ってやるか」

「あんまり分厚いのはやめた方がいいですよ、夢中になり過ぎて悪化させかねないですから」

「それもそうやなぁ」

「───ああ居た居た! 江神さん! マリア!」

「モチさん! 信長さんもどうして?」

「いつまで待っても来いへんから探しに来たんや。部長、これからアリスの陣中見舞いに行きませんか?」

「今日出た新刊があるんですよ」



 行き付けの本屋の店舗名が入った茶色の紙袋を頭上に掲げ、息を切らせて走り寄ってきた我らがEMCのメンバー、モチさんこと望月周平と信長さんこと織田光次郎の言葉に私と江神さんが今度こそ声を上げて笑ったのは言うまでもない。 











───The longest journey is the journey inward.

もっとも長い旅路は、自分の心に向かう旅路である。

                                             (ダグ・ハマーショールド)



















すみませんオリキャラの名前が荒川なのは全くの偶然です。
この頃は鋼どころか牛さんの「う」の字も知りませんでした。
実際書いたのは6年?7年?8年?もっと前?
縦書き→横書きに変換すると微妙に雰囲気変わるとはいえ、今見ると文体も内容も荒くて痛いなー。
原作本は一通り読んでおりましたが、
初めて書いた有栖川小説だったので無理矢理感が溢れまくっております。
ネタ探しの為に100均で「世界の名言集」を買ったのもいい思い出。(※その本は既に行方不明)
つーか江神さん×アリス本だったのに、
マリア視点&殆どそれっぽい雰囲気がないのが私たる所以……なんか本当にごめんなさい。
昔はサイトにアップする小説に座談会をつけるのが恒例でしたが、
流石にコレは新たに書く気にもなれなんだ(苦笑)。

……原作読み始めた時は思いっきり年上だった江神さんも、気付けば年下か……(遠い目)

(08.06.27.UP)