【終焉】 「ひーちゃんッ! ね、ひーちゃんってば居ないの!?」 どんどんどん。 慶応三年、神無月。そろそろ秋の気配も近付いてきた頃。 質素な長屋に活発そうな娘の明るい声が響いた。 「…小鈴ちゃん?」 「藍ッ!」 そこに長い黒髪の娘が通り掛かる。 主の不在に眉をしかめていた小鈴の表情が親友の登場に明るくなった。 「藍もひーちゃんを呼びに来たの?」 「ええ、そこのお爺さんにお薬を届けに来たついでに寄ってみたんだけど…龍斗、留守なの?」 「うん、そうみたいなんだ。ったくこんな日に何処に行っちゃったんだろう。」 「そうね……あッ。」 少し考える素振りを見せた藍が思いついたように顔を上げる。 「藍?」 「たぶん、王子じゃないかしら。」 「王子?……あ、そっか!」 次いで小鈴も心当たりに気付き、ぽんと拳を叩く。 二人の娘の顔に全てを納得した柔らかな笑みが浮かんだ。 「それじゃ、後は龍斗に任せて私達は時諏佐先生の処へ行きましょうか。」 「そだね。」 小鈴と並んで歩き出しながら、藍はふと空を仰いだ。 澄んだ青空と白い雲は昨日と何ら変わりもないけれど。
昼日中だというのに雨戸を閉め切っている為に薄暗いその部屋で、少女は一人、座していた。 その瞳は閉じられ、まるで全てを拒絶するかのような張り詰めた気配が漂っている。 ぴちゃん。 何処かで水の音がした。 それに反応してびくり、と少女の肩が動く。 と。ばたばたと騒々しい足音がしたかと思うと、庭に面している雨戸が勢い良く解き放たれた。 「…ッ!!」 反射的に懐に忍ばせた手裏剣に手を伸ばす。 が。 「すまぬ、涼浬殿ッ!」 眩しい日の光と共に顔を見せたのは────すらりとした長身の若者。 見た目よりずっと鍛え上げられたその腕に、何故か茶碗がひとつ、携えられている。 思わぬ登場に一瞬反応が遅れた少女…仕入れと称して海外へ渡った兄に代わり、今はこの屋敷の主であり、如月骨董品店の店主でもある涼浬は懐から手を離すと息を吐いた。 「…龍斗、殿…」 その若者の名は緋勇龍斗という。 かつて共に闘った同志であり、涼浬が心より信用する数少ない人物の一人でもある。 店のお得意様でもあった彼が店を訪れる事自体は別に珍しい事ではないが、何故今ここに彼が居るのか。 今日は─────。 「表が閉まっていたゆえ、勝手に裏庭に廻らせて貰ったが留守でなくて良かった。失礼ついでに、もうひとつ頼んでもいいだろうか。」 「頼み、ですか?」 いつもは武道家らしからぬ穏やかで落ち着いた雰囲気を絶やさない男である。 龍斗にしては珍しい、慌てた様子に涼浬が疑問符を浮かべたとしても無理はない。 「桶か何かを貸してくれると有難い。このままでは気の毒ゆえ。」 「桶?」 ますます訳が分からない。 取り敢えず、促されるまま庭先に立つ龍斗の元に駆け寄ってみて涼浬はようやく彼が慌てていた理由を察した。 「…金魚…」 大事そうに龍斗が持つ茶碗の中、なみなみと注がれた水の中で心持ち狭そうな様子で泳いでいるのは紛う事なき紅色の金魚。 一寸に満たない大きさのそれが一匹、確かに存在していた。 「そこの通りで金魚売りに出くわしてな。もう季節外れではあるが、可愛さについ購ってしまった。ところが入れ物がない。」 「…それで茶碗ですか。」 「うん、ちょうど茶碗屋があったのでその店で一番大きな茶碗で暫く我慢して貰う事にしたのだ。」 にこり、と邪気のない笑みを浮かべられてはこちらとしては脱力するしかない。 なんともこの若者らしいというか。 決して頼りない訳ではなく、寧ろ彼ほど頼りになる者はそうはいないと《仲間》の誰もが言うが、どこか子供のようなところがあるのだこの男は。 「…では、私は入れ物を探して参ります。龍斗殿は井戸の水を汲んでおいて頂けますか。」 「分かった、お手数を掛ける。」 「お得意様のご注文は無下にできませんから。」 本当に申し訳なさそうに頭を下げる彼が可笑しくて。 母屋に戻りながら涼浬は小さく口元に笑みを浮かべた。 自分でも────こんな日に笑えた事に驚きながら。
女人の一人住まいに上がり込むまでは図々しくないつもりだ、と笑って座敷に上がるのを辞した龍斗と並んで縁側に腰掛けてからどれくらいの時が過ぎただろう。 いつの間にやら日は西に傾き、夕焼けで空が紅く染まっている。 その間、涼浬は何も言葉を発する事ができなかった。 龍斗も何も言おうとはしなかった。 ただ、二人黙って暮れゆく庭を眺め。ゆらゆらと泳ぐ金魚を眺めた。 晩飯時が近付いたせいか、ますます賑やかになった表の喧騒がどこか遠くに聞こえる。
正式に知らせが人々の耳に入るのはどれだけ早くても明日以降になるだろう。 涼浬が今日という日に雲の上で何が行われたのかを事前に知っていたのは、永い間徳川に仕えた公儀隠密という立場ゆえだった。 それはかつて秘密裏に活躍した龍閃組という組織の一員でもあった龍斗にも同じ事が言える。 恐らく……だから、龍斗はここに来たのだ。 本来なら、別に行くべき場所があったにも関わらず。
とうとう。 押さえきれなくなった不安が、溢れ出す。 あからさまな慰めも励ましもせず。 黙って傍らに付き添ってくれた彼が居たからこそ押さえられていた気持ちも、日が沈むと同時に限界にきていた。 「私はこの世に生を受けた時から忍でした。徳川が全てでした。」 ぽとり、と。 知らず涼浬の目から光るものが落ちる。 ───物心ついた頃から感情を殺す事を学び。 涙の流し方などとうの昔に忘れてしまったと思っていたのに。 「今は…違う。飛水を裏切った兄上への殺意に凝り固まっていた私を救い…もっと大切なものがあるという事を貴方が教えてくれました。自分で考え、自分の望む通りに生きるという道がある事を教えてくれました。だけど…やはり、私は徳川を護る忍なのです。徳川がなければ、私は私でなくなってしまう。私の存在意義がなくなってしまう……」
今日この日、拾五代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返却した。 永きに渡ってこの国を支配していた徳川幕府は今まさに滅びようとしている。
「……?」 何の脈略もなく降ってきた言葉に顔を上げると、すぐそこにあるのは静かな微笑みを浮かべる若者の顔。 龍斗は涼浬の目元を己の指でそっと拭い、あやすように肩をぽんぽんと叩くと、庭の桶を指差してみせた。 既に辺りはかなり暗くなってはいたが、その小さく紅い背中は今も水面にはっきりと見てとれる。 「確か元は鮒だったか。いろいろ掛け合わせて、今のように小さく綺麗な色の種を造ったのだと聞いた事がある。自らの意思で進化したのではなく、人が飼育して楽しむ為に生まれたのだな。そしてそれが当たり前になった。」 「……………」 「だけど今そこに居る金魚はそのような人の事情など知った事ではないと言うだろう。小さいながら現在を精一杯生きている。金魚に直接聞いた訳ではないが、人を楽しませるつもりで生きている奴などいないだろうよ。例えこの世に人がいなくなっても、そこに水と草があれば結構逞しく生き続けるに違いない。
これも器の大きさなのか…こんな彼だから誰もが彼を慕い。 敵対していた者同士が手を組み、より大きな災いを退ける事ができたのかもしれない。 今更ながら、そう思う。
「ははは、流石に涼浬殿は手厳しい。俺が惚れただけはある。」 「そういう問題ではないと思います。」 さらりと爆弾発言を放ち、にこやかに笑う龍斗を見ていると未だ徳川に縛られていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるから不思議である。 しかし次の瞬間。 龍斗は顔を引き締め、改めて涼浬に向かい合った。 真剣な瞳に涼浬の胸がどきり、と高鳴る。
そこにあるのは、優しいだけの男の顔ではない。 強い意思を持つ者だけが有する、輝き。そして笑顔。
「……………」 「未だこの地には龍脈が残っている。いつまたあの男のようにこの地を戦乱に落とし入れようとする者が出るやもしれぬ。そうでなくとも徳川の支配が終わろうという今、これから江戸は荒れよう。京梧殿や雄慶殿…多くの仲間達が自らの道を進んだように、涼浬殿の居るこの地を護るのが俺の選んだ道なのだ。 「私に……ですか。」 「本末転倒なのは俺とて分かっている。無論、無理にとは言わない。最早涼浬殿には縛るものもないのだから、俺などの我侭に合わせる必要もないのだ。そなた自身の幸せの為には、寧ろ断るべきだろう。」 不器用で。嘘偽りを寄せ付けない、真摯な言葉。 それがこの緋勇龍斗という男だった。
「俺もそう思う。」
やっと………心から笑えた。
目の前で泳ぐ小さな魚のように己を割り切る事はまだ無理かもしれないけれど。 この人と一緒なら────きっと、そこに自分の存在意義を見付けられる。 生まれた時から決められていた道ではなく。 今度こそ本当に自らの意思で道を見付けられる。
一番星の輝く庭で、二つの影が静かに重なり。 ぱしゃり。 その未来を祝福するかのように、桶の中で紅い宝石が大きく跳ねた。
公儀隠密飛水流は戦火の中で、あるいは龍脈に伴って産まれた人為らざる者達に対して。 《江戸》改め《東京》を護る守護神の要として陰ながら活躍したと伝えられる。 その礎となった夫婦の子供達のそのまた子供達が遠い先祖と同じ《宿星》に導かれ、また別の形で出遭う事になるのは当分先の話である─────。
涼浬「…本日はもう閉店なのですが…」 作者「初っ端からそれかい。せっかくの座談会だってのに愛想がないのは予想通りというか… まぁ涼浬はそこが可愛いっちゃ可愛いんだけどさ。 公式の人気投票で唯一5位以内にランクインした女キャラなだけはあるよ。 外法帖発売前にラギーの先祖が女だってんで大騒ぎされて兄貴が登場したら、 シスコン兄貴より遥かに妹に人気出たのがなんとも言えないよなぁ(笑)。 」 涼浬「らぎい? しすこん???」 作者「いや知らない方が幸せかもしれないから忘れろ。しっかし龍斗は何処へ行ったのやら。 突発とはいえ外法初の男主で珍しくマトモ(?)なタイプだってのにさ。」 涼浬「ああ、龍斗殿なら裏の蔵に……金魚鉢にちょうどいい硝子の入れ物があったのを思い出したので 作者「うわ、やっぱさり気に旦那を尻に敷くタイプだったかすずりん!!(大笑)」 カッ。 涼浬「………すみません、手が滑りました。」 作者「クナイが滑って壁に刺さるか────!! もうちょっとであの世を見たぞ!?」 涼浬「大丈夫です。毒は塗ってありませんから。」 作者「毒はなくともこんなものが首に刺されば死ぬわい!!!(ぜいぜい)」 龍斗「───見付かったぞ、涼浬殿。これでいいのだろうか。」 涼浬「はい、有難うございます。早速金魚を移して奥でお茶にでもしませんか。」 龍斗「それは有難い。では参ろうか……涼浬。」 涼浬「はい…龍斗さん。」 作者「(待てコラ、二人の世界はいいがいつの間に飛水影縫をかけた涼浬!! 龍斗も綺麗さっぱり俺を無視すんなぁぁぁぁぁぁ!!)」←痺れて声が出ないらしい(笑) 長男には古武道、次男には飛水の技を受け継がせて…って |