【素敵な日常3】 穏やかな土曜日の午後。 「こんちは〜」 カララ。 少女の明るい声と共に、年代ものの木製の扉が耳に馴染んだ音を立てて開く。 東京都北区にある骨董品店の店主は手にしていた帳簿を閉じると、静かに顔を上げた。 「やぁ、いらっしゃ………その荷物は何だい、弓奈。」 店主としてのお決まりの挨拶を返しつつ、如月が溜息をついたのも無理はない。 そこに現れたのは玄武たる自分が守護すべき黄龍…緋勇弓奈。 開いた扉から入るそよ風が、頭上でふたつに結わえられた彼女の長い栗色の髪をさらさらと揺らしていた。 一度家に帰って着替えてきたのだろう、真神の白いセーラー服ではなくオレンジ色のニットにベージュの膝丈スカート姿である。 弓奈がここに来るのは別に珍しい事でも何でもない。 彼女はこの4月から、『仲間』と一緒にそれこそ数え切れないくらいこの店を訪れては、人外の者と闘うのに必要なものを買っていった。 だが。 問題は現在彼女が家出少女の如く大荷物を手にしているという事だ。 とても東京の命運を握っているようには思えない華奢な肩に掛けられた大きな赤いトートバッグにはパンパンに中身が詰め込まれ、更に両手にも手提げ袋をぶら下げている。 …今日は特に多い。 「うちは骨董屋であって、廃品回収を生業にしている訳じゃないと言ってるだろう。」 そう───最近では如月が売る以上に引き取る事が多いのは否めない。 彼女達が旧校舎やら路地裏やら中央公園やらで入手し、余ったものをどうするかというと…その性質上ここに持って来るしかないのだから仕方ないといえば仕方ないのだが、こうも物が溢れると値崩れしてしまって店主としては喜ばしくないのが本音だ。 弓奈は扉を閉めて如月のすぐ前まで歩いてくると、少し拗ねたような顔を見せた。 「あのね翡翠…あたしの事を何だと思ってるの?」 「それはこっちが聞きたいね。君は僕を何だと思ってるんだい?」 「大切な仲間で、友達だよ?」 「……それはどうも。」 「あ、その顔。なんか腑に落ちないなー。」 それでも。 彼女の笑う顔を見ると、どうにも逆らえなくなってしまうのは玄武の性なのだろうか。 「で?今日は何を売りに来たんだい。一人で来るとは珍しいが。」 そもそも、彼女一人にこれだけの荷物を持たせてここに来させる事自体珍しい。 言外にある人物の事を指しているが、彼女はそれに気付いた風もなく首をぶんぶんと振った。 「違う違う、だから今日はアイテムを売りに来たんじゃないってば。」 「それでは…」 「…翡翠ッ!」 ばん。 気が付けばすぐそこに少女の大きな瞳があって。 弓奈は如月の座っていた板の間に手を付き、身を乗り出すようにして真剣な顔でこちらを見つめていた。 その距離、約20cm。某木刀男辺りならこのまま勢いで押し倒しそうな距離である。 「弓奈…?」 こんな状況でも傍目には全く動揺しているように見えないのは、如月の如月たる所以だろう。 伊達に『無』を座右の銘にしてはいない。が。
「うん…だって…」 如月家の台所で持参のネコのワンポイント付きエプロンを掛けつつ、弓奈は如月の質問に答えた。 その頬が少し赤いのは恋する乙女の特権か。 問い掛けたのは自分だが、聞きながら如月が思いっきり後悔したとしても仕方ないだろう。 つまり。 現在、緋勇家の夕食はほぼ毎日のようにぶーちゃん(弓奈:談)…弓奈を中心とする仲間達の一人、壬生紅葉が作りに来ている。 全ては弓奈が極端に料理が下手だという事実に起因する、とある事件がきっかけなのだという。 葛飾区から新宿区。放課後すぐに彼女のマンションに向かうとしてもその距離もさる事ながら、気絶するほどの料理とはどんなものだったのかとか、彼の『仕事』に支障はないのかとか、その後もしや朝まで…?とか、自分も仲間の一人として気になる事は多々あるが、考えるだけ無駄のような気がするのでここは敢えて無視する如月である。 勿論、弓奈とて全てを壬生に任せてのんびりしている訳ではない。 できる限り手伝おうと、料理の間中彼の周りをうろちょろしてはいるのだが、いかんせん壬生の手際が良すぎて却って邪魔になってしまうのだ。 壬生は決してそうとは口に出さないが、いかに鈍い弓奈でもそれくらいは分かる。 結果、どうしても作業の殆どを彼に任す事になってしまい、当然弓奈の料理の腕は上がる筈もなく。 嬉しい反面申し訳なくもあるのだという。
『本日休業』の札を表に出し(彼女が来た時点でそうなる予感はしていたが)。 普段着である着物の上から愛用の割烹着を着けながらそれは君に対してだけだ、と心の中で呟く如月。 弓奈のこの様子から察するに壬生は夕飯を作った後は紳士的にも泊る事なく自分の家に引き上げているようだが、その心中やいかなものだろうか。
彼女だからこそ、あれだけ個性の強い面々が集まったのだと言えるだろう。 だが彼女の騎士──こと弓奈に関する限り己の持てる力(拳武の権力含む)を200%フルに発揮するアサシンを思い浮かべると、やはり世の中どこか間違っていると思わずにはいられない。 恐ろしい事にこの二人はあれだけラブラブ光線を周囲に撒き散らしながら永い間お互いに片想いだと思っていたらしいが、最近になって両想いを自覚してからの壬生はまさに無敵と言えた。 当然、壬生に纏わる京一及び劉の悲劇は如月の耳にも届いている。 ───まかり間違っても彼等の二の舞だけは決して踏むまい。 密かに決心を固める如月の横で、できるだけ翡翠に迷惑は掛けないからと、これも持参してきた食材や調味料を手提げ袋から取り出す弓奈。 そういえば如月骨董品店の最寄りのスーパーでは省資源という事で買物袋の持参を薦めている。おそらくこの大量の食材もそこで買ってきたのだろう。 料理が苦手と言いつつこの辺り妙に主婦じみているのは、旧校舎で稼いだ仲間共通の金銭を彼女が一切管理している事に起因するのかもしれない。
弓奈は取り出した大根を流しに置くと、如月に向かって微かに微笑んで見せた。 「……………」 いつだって元気一杯、明るく笑う彼女だが。 今まで見せた事のない『女』の表情に、如月は思わず息を呑んだ。
弓奈の瞳の端にきらりと光るものがあった。
ならば自分が料理が上手くなれば。例えその場凌ぎだとしても、せめて彼が納得するだけの料理を作ってみせれば。そう考えたとしても無理はない。 ちょうど今日、壬生はどうしても外せない用事があるとかで彼女の家に来れないという。 彼女にしてみればこのチャンスを逃がす訳にはいかなかった。 弓奈は黙って自分を見つめる如月に気付くと、慌てて目元を指先で拭った。 「ご、ごめんね、いきなり頼み込んだ上にヘンな事言って。…翡翠しか思い付かなかったんだ。」 確かに如月は幼い頃から必要に迫られていたのもあって、料理…特に和食は得意である。 広い家に一人暮しだから同居する家族に迷惑を掛ける心配もない。 そういう意味では、如月ほど先生に適した人間は周りにいないかもしれない。 「………分かってるよ。」 本当に申し訳なさそうに頭をぺこりと下げる弓奈を安心させる為に。 如月は小さく笑ってみせた。───それしかできなかった。
彼女が、いかにあの男の事を想っているのか。 あの男が、彼女にとってどれほど大きな存在なのか。 あの男だけが、彼女を《黄龍》ではなくただの一人の少女に戻す事ができるという事が。
「え?入れないの?」 「………普通は入れないと思うよ。」 「翡翠、そこの白菜取ってくれる?」 「………これはレタスだよ………」 「そうだった!?うーん…まぁいいか、似てるし代用できるよね?」 「……………」 「お醤油大さじ2…大さじってこれくらい?」 「………象の食事を作るのでなかったら、おたまで量るのは間違っていると思うが。」 「そうかぁ…うわ、お鍋が燃えてるッ!?」 「何を入れたんだ弓奈ッ!今、水を…」 「雪蓮掌ッ!!」 「待て─────ッ!!」
さり気なく最強な黄龍が相手では、いかに壬生といえども苦労するだろうなと思わないでもないのだが。
「良かったぁ…有難う、翡翠。」 それでも弓奈の必死の努力のかいあってか、如月の決死のフォローのかいあってか(おそらく後者の方が割合的に大きいと思われる)、4時間にも及ぶ格闘の末にどうにか3つの鍋の中身が料理の体裁を取るようになった頃。 如月はふと、流しで洗い物をしている弓奈の指が目に入った。 慣れない庖丁で切ったのだろうか、左手の中指の先に薄く血が滲んでいる。
「じっとして。」 「え、えええ……ッ!?」
きつく吸うと口の中に鉄の味が微かに広がった。 時間にしてほんの数秒。 当の弓奈は真っ赤な顔で完全に固まってしまっている。 如月はゆっくりとその手を解放すると、客にも滅多に見せない顔でにこりと微笑んで見せた。 「血…止まったようだよ。もう大丈夫だろう。」 「う、うん…あ、ありがと…」 ようやく如月の行為の意味に気付いた弓奈が、我に返ったように礼を言った。 そして見せたのはいつもの彼女の屈託のない笑顔。 「びっくりしたぁ…翡翠ってばいつもこんな事してるの?」 「たまたま今はこれが一番手っ取り早かっただけさ。生憎、今までそんな機会はなかったけどね。」 「女の子にするのは気を付けた方がいいよ?翡翠ってモテるんだから誤解されちゃっても知らないから。」 「…死んでも男にする気はないが、肝に命じておくよ。ところで最後の仕上げに酢橘を入れたいんだがちょうど切らしていてね…悪いが、左の角を曲がったところにある食料品店なら売ってると思うから買ってきて貰えるかな。」 言いながら如月は何気なく懐から千円札を取り出し、弓奈に渡す。 「あ、うん。分かった〜。」 案の定彼女は何の疑問も持たずにそれを受け取るとエプロンを外し、ぱたぱたと台所を出て廊下へと消えていった。
「じゃ、行ってきま〜す!」 少女の声と共にピシャ、と扉の閉まる音がする。
シュッ、カッ。 その瞬間。 風を切り裂く音がして出刃庖丁が台所の天井に突き刺さった。 洗って水切りの上に置いてあったそれを、如月が手裏剣を投げるが如く上方へと放ったのである。 因みに目線は前方の鍋を見据えたままだ。
「…流石ですね、如月さん。」 庖丁の刺さった1m四方の天井板を外して顔を見せたのは、本来ならここにいる筈のない男。 その右手の袖口に暗殺用と思われる針のようなものが覗いていたのは気のせいではないだろう。 おそらくあと1秒でも弓奈の指を解放するのが遅かったら、如月の首筋にそれが容赦なく飛んできていたに違いない。 全く───分かってはいたが、ちょっとした悪戯をするのも命懸けである。 「勝手に人の家の天井裏に登らないでくれないか、壬生。」 「そうですね。」 ここでしらを切っても無駄なのは誰の目にも明らかで。 その男───壬生紅葉は如月の忠告を受けるとすぐにすた、と音もなく天井から床へと飛び降りた。 如月はそれにちらりと冷たい視線を送り、問い掛ける。 「そこに辿り着くまでに罠があったと思うが。」 「ええ、解除するのに随分苦労させられましたよ。忍者屋敷に忍び込むのなんて僕も初めてでしたからね。危うく東京湾に流されそうになりました。」 よく見ると、確かに壬生の学ランが少し湿っているようである。 それでも飛水家の誇るトラップを潜り抜けて最終的に目的地に辿り着くのは、曲がりなりにも拳武館暗殺組トップの為せる技というべきか。 「壊した仕掛けについては後で請求書を送るから覚悟しておきたまえ。」 「あまり細かい事を言っていると老けますよ?」 「君に言われる筋合いはない。……しかし随分と回りくどい事をしたものだな。」 言いながら再び鍋に視線を戻すと、如月は今日一番の溜息をついた。
そしてどんなに隠そうとしてもすぐに考えが態度に出てしまう、素直過ぎる彼女。 ───毎日のように会っていて、弓奈が何か悩みを抱えているという事に壬生が気付かない筈もない。 彼女が壬生にその理由を話さないというのなら。壬生がその原因だというのなら。 わざと用事があるとして壬生が席を外せば、彼女が誰か別の『仲間』に相談に出るのは簡単に予想できる。 そして、まず間違いなく壬生がそれを尾行するであろうという事も。
───不安になる事だって、ある。
何が哀しくて惚気に付き合わねばならないのか。
例え惚気でも、彼女と過ごす時間を楽しいと思ったのは嘘ではない。 如月はそんな自分に今更ながら苦笑するしかなかった。 自分は《玄武》。 《宿星》のままに《黄龍》を護る存在でしかなかった筈なのに。 それだけの意味しか持たなかったのに。
どんな時でも『無』の境地を忘れた事はない。 それなのに口に出した途端、声が荒くなるのを抑えられなかった。 「甘やかすだけが愛情ではない。弓奈はいつだって君の事だけを考えている。どんな形であれ、彼女を不安にさせる者は《玄武》として許す事はできない。」 そこで一息つくと、如月は真っ直ぐに壬生を見据えた。 「後は君達の問題だ。僕が口を出すものではない。───だが、次に彼女を不安にさせた時は…今度は《玄武》ではなく《僕》が彼女を護る。」 ───それは、静かな宣戦布告。
やっと、自覚した。
壬生はそんな如月に対し、僅かに目を細めてみせた。 普段ならこの暗殺者の辞書に『次』なんてものはない。弓奈に関する危険分子は速攻で制裁。 それがこの男のやり方である。 だが今度の事で壬生も考えるものがあったのだろう。 もしかしたらいつも自分の気持ちを表さない如月がようやく本心を見せた事に対して、彼なりに敬意を払ったのかもしれない。 「ご迷惑をお掛けしたのも事実ですので、今日のところはこのまま引き下がります。」 「それがいい。もうすぐ弓奈が戻ってくるだろう。───用事があると言っていた男がストーカーの如く自分の周りをかぎ回っていると知れば、彼女も目を覚ますかもしれないが。」 「言っておきますが、もし弓奈にいかがわしい事をしたら今度こそ手加減しませんよ?」 「君が見ているところでは考慮するが、後はどうだか分からないな。」 「僕に喧嘩を売ってるんですか?」 「ライバルは多い方が君も退屈しなくていいだろう。」 「そうですね。その時は全力をもって潰しますから、覚悟しておいて下さい。…では。」 言うや否や台所の窓に手を掛けて庭に飛び出ると、その男は如月の前から走り去る。
そのきっかり5秒後、少女の元気な声が古い屋敷に響いた。 特殊な《氣》とはいえ弓奈もそうそう周りに自分の存在をアピールしまくっている訳ではないのに、あの男のレーダーも大したものである。 「…おかえり、弓奈。」 そして如月は苦笑を浮かべて静かに少女に応えたのだった。
決して彼等の二の舞は踏むまいと思っていたのに自ら進んでやっかい事に首を突っ込み、あまつさえ挑発までしてしまうとは。 少し前までの自分には考えられない。
決してあの男の代わりにはなれはしない。
自分はあの男ではなく、《如月翡翠》なのだから。 自分があの男の代わりになる必要など、始めからない。 彼女は最初から自分を《玄武》ではなく《如月翡翠》として見てくれているのだから。
「この家も古いからね。大丈夫、何でもないよ。」 「…翡翠?なんか楽しい事でもあった?」 「そうか…だとしたら君のおかげだな。」 「?」 「それよりも、料理の仕上げに取り掛かろうか。あと少しだよ。」 「うん!」
彼女は氷のように頑なになっていた自分の心を溶かしてくれた。 例えこれから何があろうとも。 彼女が最終的に誰を選ぼうとも。 自分はいつまでも彼女を大切に想おう───《玄武》としてではなく、《如月翡翠》として。
無事に料理を完成させ、試食と称してその日は弓奈と二人で楽しい夕餉を過ごした如月だが(勿論彼女はその後すぐに家に帰った)、翌日から事ある毎に店を襲う何者かの襲撃を撃退する事ができるのかどうか。 そしてその都度、拳武館の館長あてに請求書が届くようになるのかどうか。 また、如月特製レシピ(葱を切る姿勢から図解してある、小学生でも安心解説付き)を片手に自宅で一人奮戦する弓奈の努力が報われるのかどうか。 彼女の気持ちを知った壬生がそれに対しどう応えるのか。
壬生「このシリーズは僕と弓奈の愛のメモリー(作者注:壊れギャグ)がメインの筈なのに、 僕の登場シーンがあれだけとは…余程作者は死にたいらしいね。」 如月「戯言はともかく、誰もこのシリーズを覚えてはいないだろう。(断言) そもそもこれだけふざけた男の話が3作目に突入した事自体、奇跡だ。 壬生、殺るのは勝手だが店先では止めてくれ。今後の客足に響く。」 壬生「…如月さん、何なら貴方もあちらに一緒に送って差し上げましょうか? そうすれば余計な心配をする必要もなくなりますよ。」 如月「馬鹿作者と心中させられるくらいなら、自ら死を選ばせて貰うよ。(きっぱり) 尤も、そうなれば弓奈が泣いて哀しむだろうけどね。 彼女はあれで僕をひどく頼りにしているからな──もしかしたら誰かさんよりもずっと。」 壬生「…聞き捨てならないですね、それは。」 如月「事実だ。君に相談するよりも先に僕のところへ来たのがいい例だろう。」 壬生「…一度、きちんと勝負しませんか?」 如月「今まで何度も闇討ちを仕掛けてきた君にそう言われるとは思わなかったよ。」 壬生「ふッ…」 如月「ふッ…」 どんどん重くなる空気。それを遠くから見守る(?)二つの影。 弓奈「あー、またあの二人でお話してる。最近仲イイんだよね、ぶーちゃんと翡翠。 良かったぁ、二人ともお友達が少なそうだから(←なに気に失礼)心配してたんだ。」 京一「ゆん…お前、本気で言ってるのか…?」 弓奈「え?」 京一「…いや、もういい…(溜息)」 う〜ん。京一や劉みたいに如月も不幸にするつもりだったのに(酷)、 |