【月傷】





「……ふう。」

 杓子を水瓶に戻し、風祭は大きく息を吐いた。

着物の袖で口元を乱暴に拭う。

 今、風祭を包むのは真夜中特有の闇。

格子の入った小窓から差し込む月明かりだけが唯一の光源だった。

何ともなしに窓の外に目をやると、ちょうど満月のようである。

喉が渇いた為にこんな時間に起き出してきた訳だが、深い森に囲まれたこの村の夜は本当に静かで。

加えてあちこちに張り巡らせられた結界によって空間が歪められているせいで、こんな夜は余計にここがこの世のものではないように感じられる。

「…ん?」

 と。

風祭は視界の端に一瞬何かが映ったのに気が付いた。

物音はしない。気配もない。

それに風祭が気が付いたのは単なる偶然でしかなかったが、あれは確かに見覚えがある。

月明かりの中、村を抜けて森の奥へと消えて行くひとつの影。

動き易さに重点を置いた、短めの道着に似た着物。

無造作に首の後ろで束ねられた長い黒髪が揺れている。

風祭は反射的に自分の部屋の方───正確にはその隣の部屋の方角へ顔を向けた。

───裏口から出たのはまず間違いないだろうが、その人物が部屋を抜け出したのに全く気が付かなかった。

「ちッ」

 ひとつ舌打ちすると、その場を飛び出す。

既に見えなくなった影を追って、風祭は闇の中を駆け出した。





───緋勇麻希。それが彼の人物の名前である。

半月ばかり前、ひょっこり村に現れたかと思うといつの間にやら居座った得体の知れない娘が彼女だった。

鬼哭村に住む殆どの人間が真っ当な人生を送ってきたとは言えないが、その中でも麻希は異色だろう。

見た目はごく普通の若い娘だ。

町娘と言うには少々変わった装いであり、目に掛かりそうな長めの前髪も特徴的ではあるが、細身の身体と健康的な肌色は何の変哲もない。

つまり特に目立つような美人でもなく、桔梗などに比べるとどう贔屓目に見ても女の色気に欠ける。

だが───その武道の腕は間違いなく本物だった。

それも風祭と同じく無手の技を遣う。おまけに技の系統まで似ている。





───はっきり言って、気に入らない。

恐らく…面と向かって認めはしないが、武道家としての実力は彼女の方が上だ。

しかも明らかに警戒する風祭に対し、彼女は屈託なく真正面から接してくる。

馴れ馴れしくも風祭を「澳くん」と呼び、まるで弟にでも接するように笑い掛けてくる。

それが余計に腹が立つ。

何故、九角も桔梗も九桐もこんな素性も分からない奴を信頼して手元に置くのだろう。

こいつの意見を尊重するのだろう。重大な任務を任せるのだろう。

ずっと、そう思っていた。





───そして何より。

麻希が来てから何かが…鬼道衆が、変わってきている。

まだ何処がどうと説明する事ができない程、些細な変化ではあるけれど。

それがどうしようもない不安を煽る。







「くそッ…どこ行きやがった…」

 深く暗い森を足早に歩きながら風祭は呟いた。

僅かに出遅れたせいで少女の姿は完全に見失ってしまったが、彼女がこの近くにいるのは間違いない。

正直、何故自分が麻希を追って来たのかは分からなかった。

単に放っておけなかっただけかもしれない。理屈や好奇心より先に身体が動いた。

ひょっとしたら彼女はやはり幕府の狗で、これから奴らと接触するのかもしれないという考えがちらりと脳裏をよぎる。

しかしそれは違う、と漠然と理解している自分もいた。

それならもっと早くに行動を起こしている筈だ。

今までいくらでもその機会はあったのだから。

だとすると一体何の為にこんな夜中に─────



「────ッ!!」



 その時。

押し殺された…それでも圧倒的なまでに強い《氣》が、風祭のすぐ近くで弾けたのが分かった。

咄嗟に気配を消し、木影に隠れるようにしてその方向を見やる。

そこはちょうど木々が開け、小さな空き地となった空間だった。

息を呑む風祭の目の前、月明かりの中で一人佇んでいるのは案の定先程から風祭が探していた少女。

こちらに背を向けた姿からその表情は読み取れないが、その《氣》によって生まれた風が彼女の足元から螺旋の渦となって立ち昇り、緑の木の葉を桜吹雪のように舞い上げた。

それに彼女の身体から溢れる黄金色の氣が混ざり、幻想的なまでの光景が深い森に広がっている。

(すッ…げェ…)

 肌が泡立つ。風祭は自分がごくりと唾を飲み込んだのにさえ気付かなかった。

これは。この《力》は予想を遥かに越えている。

年若いながら鬼道衆の主戦力として腕をならした風祭だからこそ分かった。

故意か偶然か、今まで彼女が自分達に見せてきたものは彼女のほんの一部だったのだ。

───これが緋勇麻希の本当の《力》。

この娘は本当に何者なのか。

何が彼女をここまで駆り立てたのか。

完全に目を奪われ、無意識に一歩足を踏み出した瞬間。



 パキィッ。



 風祭の足元で小枝を踏み付けた乾いた音が響いた。

「………!!」

「やべッ…」

 少女が慌てたようにこちらを振り返る。

同時に彼女の纏っていた《氣》が何事もなかったかのように瞬く間に拡散された。

「澳、くん…」

 月のせいでやけに明るい闇の中でまともに目が合う。




 どきり。

心臓が激しく波打った。

少女の目元で月の光に反射するのは────涙。




「……………」

 何を言えばいいのか分からない。

わざわざ夜中に抜け出してくるくらいだ。

恐らく知られたくなかったであろう彼女の秘密を自分がムリヤリ暴いてしまったような気がして。

風祭は罪悪感に似たものを感じて口を噤んだ。沈黙に耐えられず、視線を逸らす。

 が。

「…ごめんね、澳くん。起こしちゃったんだ?」

「はぁ!?」

 思いがけず掛けられた明るい声に顔を上げると、そこにあるのは彼女の後をつけた風祭を責めるでもない、少し申し訳なさそうな笑顔。

目頭に浮かんでいた水滴を何気ない動作で拭う姿がやけに痛々しかった。  

「音を立てないように気を付けたつもりだったんだけど…私もまだまだだなぁ。」

「あ、いや、俺は水を飲みに起きててたまたま……」

(───って何で俺がこいつに言い訳しなきゃなんねーんだよッ!) 

 反射的に彼女に言葉を返しつつ、心の中で突っ込む風祭である。

麻希といるとどうも調子が狂う。

というかこの状況で全く風祭を疑ったりしない辺り、この娘のお人好しも相当なものかもしれない。

………毒食らわば皿まで。

ここまで来れば下手に誤魔化したり見なかった振りをしたりする方が不自然だろう。

「で。何だってお前はこんな時間にここにいんだよ?」

 腰に手を当て、彼女の方に歩き出しながらぶっきらぼうに問い掛ける。

我ながら人にものを聞く態度ではないとは思うが、これが性分なのだから仕方ない。

それに悪気はなかったかもしれないが麻希が挙動不審だったのは事実である。

「ん───……」

 麻希は風祭の質問に、微かに困ったような表情を見せた。

いつもはっきりとものを言う彼女にしては珍しい。

そしてゆっくりと頭上の月を振り仰いだ。

「自分でもよく分からないんだよね。…ふと目を覚まして。窓から満月が見えて。そしたら、凄く自分が許せなくなって。」

「…許せない?」

 意味不明な言葉に、思わず問い返す。

「そう。何がどう、ってはっきり言えないんだけど…きっとこんな夜に何かあったんだと思う。私が記憶を無くす前に。」

「記憶を無くすって……お前、自分の記憶がねェのかよ!?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「聞いてねェよ!!」

 思いっきり不意打ちである。少なくとも風祭は初耳だ。

鬼の村で得体の知れない娘は予想以上に得体が知れない存在だったらしい。

「といっても、故郷を出てから山小屋で桔梗さんに逢うまでの記憶がすーッて抜けてるだけで、別に生活に支障はないんだけどね。小さい頃の事は結構覚えてるし。」

「……………」

 こういう場合、何を言えばいいのだろうか。

黙るしかない風祭に麻希は気を使わないでいいんだよ、と少し笑ってみせた。

だが次の瞬間には、その顔が引き締まる。

「ただ、記憶がない間でもぼんやりと覚えている事はあるの。感情だけ覚えているというのかな…ううん、この月が思い出させたという方が近いかもしれない。凄く哀しかった事。悔しかった事。…私は大切なものを護れなかったという事だけは判る。」

 真剣な表情。

麻希の瞳には決して夢だとか思い違いだとかで済まされない真摯さがあった。

「…見て。」

 息を呑む風祭の前で、麻希は長い前髪を掻きあげてみせた。

────額のほぼ中央、普段は髪で隠された位置に見えるのは明らかな刀傷。それもまだ新しい。

一寸弱の傷跡は塞がってはいるが恐らく付けられてから数ヶ月と経っていないだろう。

位置からすると普通なら致命傷となっていても可笑しくない。

じっくりと麻希の顔を眺めた事がある訳じゃないが、そんな傷がある事に風祭は今の今まで全く気付かなかった。

いやそれ以前に、彼女程の腕の持ち主にこのような傷を負わせた者が存在したという事自体が驚愕だ。

「この傷ができた時の事を私は覚えていない。たぶん今夜みたいな満月の夜…凄く大切なものを失った時にできたんだと思う。そしてそれは私の《力》が足りなかったせい。その時、私にもっと《力》があればそれは回避できたのかもしれない。そう思うとじっと寝てられなくて……」

 再び髪を降ろし、俯いた麻希の握り締めた拳が震えているのは気のせいではないだろう。





(…そうかあれは…)

 風祭はやっと理解した。

先程の凄まじいまでの《力》。あれはいつも明るい少女の悲痛な叫びだったのだ。

声の限り泣き叫ぶよりも激しい…心のまま己の全てを開け放した魂の叫び。

無くした記憶の唯一の鍵である満月を目にして、無意識に叫ばずにはいられない程の心の傷が彼女にはあり。

そのまま抱え続けていたら精神だけでなく身体の方の破壊も考えられる程の重荷の解放は、見た目よりも不器用な少女の本能のようなものだったのだろう。

この様子だと本人ですら先程自分が放った《力》の大きさは測りかねているに違いない。

 人は────どうしても信じられない辛い出来事を記憶から抹消する事がある。

昔、何かのついでにそう九桐に聞いた事があったように思う。

いくら実際に声を上げなくても屋敷や屋敷周辺であれ程までに《氣》を放出すれば家人が何事かと騒ぐのは自明の理、だから辛うじて残った理性で屋敷から遠く離れたここまで一人やって来た。





「───そしてきっと、まだ何も終わってはいない。私、澳くんも九角くんも桔梗さんも九桐くんも…鬼道衆の皆が好き。────もう誰も失いたくないのに!!」





 鬼道衆の誰もが心に傷を抱えている。誰かに語る事はないが風祭とて例外ではない。

もしかしたら…九角は麻希の《傷》に気付いて、だから彼女を傍に置く事にしたのかもしれない。

少女は皆の前でいつだって明るく笑っていたけれど。

あの人なら、鬼の村に新たな風を吹き込んだ少女の抱えたものに気が付いても可笑しくはない。





「馬ッ鹿じゃねェの。」

 語彙が多いとは決して言えない風祭に、上手く話す事など最初から不可能である。

そもそも説教だの何だのは坊主や神父の十八番で、風祭は真っ先に逃げ出す方だ。

麻希はというと、脈略もなくあっさりと放たれた言葉に目をぱちくりさせた。

「誰が死ぬって?ったくフザケた事ぬかしてんじゃねーっての。」

「澳くん…?」

「お前がどんな過去をもってようが俺の知った事じゃねェよ。だけどよ、お前は今生きてるんだ。だったら今度こそ、勝てばいいじゃねェか。」

 びしぃッと人差し指を麻希に突き付ける。



「つか、鬼道衆を舐めんじゃねェ!! 誰がお前一人で闘わせるかよ!!」

 得体が知れない奴だ。信用ならない。ずっとそう思っていた筈だけど。




「───《俺達》はぜってェ、誰にも負けねェ!!!」




───例えどんな過去があろうと、緋勇麻希という人間は既に《仲間》なのだ。





 心の傷は時として人を強くする。生きる力となる事もある。

彼女にはそれを乗り越えるだけの《強さ》がある。

だから九角を始め、誰もが麻希を信じるのだ。彼女と共にあるのが自然なのだ。

───《仲間》の為なら、どんな敵だろうと共に立ち向かってみせる。





 僅かな時間、空き地で向かい合った二人の間に沈黙が落ちた。

それを謀ったように夜空に雲が過り、月を覆い隠して辺りが真の闇に染まる。

 そして。

「あ…はは…ッ…」

 再び顔を出した月の下、現れたのは肩を振るわせた少女の姿。

どうやら息を殺して笑っているらしい。

「っ何笑ってやがる、てめ!!」

「ごめ、ん…本当にそうだと思って……ッ」

 怒りを露にする風祭を余所に麻希は楽しそうにひとしきり笑うと、指先で目元を拭った。

次いで改めて風祭に向かう。




「───有難う、澳くん。」

 そこにあるのは────今まで彼女が見せた笑顔の中で一番眩しい笑顔。

………つい昨日まで風祭が漠然と感じていた不安が、氷解したような気が………した。




「い、言っとくけど、俺はお前にだって負けるつもりは更々ねェからな!! 今は無理でも近いうちに必ず追い抜かしてやるから覚悟しとけよ、麻希ッ!!」

 恐らく出遭って初めてまともに少女の名前を口にしたように思う。

同時に何故か妙に心臓の音が喧しくて。

風祭は紅く火照った顔を隠すようにくるりと麻希に背を向けると、その場を全速力で走り去ったのだった。













 因みに、翌朝。

お約束のようにものの見事に寝坊した風祭は、桔梗直々の命を受けた麻希の素晴らしい踵落としによって目を覚ます事になった。

容赦ない実力行使にぎゃんぎゃんと吠える風祭の怒鳴り声と、楽しげに笑う女性二人の笑い声が広い屋敷に響く。

そしてその陰には何故か欠伸を堪えながら三人を微笑ましく見護る九角家現当主の姿があり。

彼の隣で頷く破戒僧の姿があり。

この日から鬼哭村名物、少年と少女の身体を張った漫才は幕を開けたという─────。






          【どーにかこーにか外法SS第2弾だよ座談会】

麻希「お久しぶりです。突発女主だったのに計画性のない作者の都合により再び登場の緋勇麻希です。」

風祭「つか、なんだよ俺の扱いは!! めちゃくちゃ中途半端じゃねェか!!」

作者「単なる噛ませ犬(スパッ)。本文に御屋形様が出ようが出まいが、一度くっ付けちゃったからね〜。

   時期は前に戻っても、節操なく他の野郎とラブラブなんかできるかい。

   てゆーか前作の続きというより鬼道衆に溶け込む前の女主ってのを書きたかったんだよ。単発で。

   カップリング抜きで、一番反抗しそうな相手と言ったらお子様しかいないじゃん。

   ただ、扱いとしては最終的にシリアスちっくになった分これはまだマシな方。

   ボツった最初のネタは『風祭、麻希に泳法の特訓を受ける』ってギャグ系だったりして(笑)。」

風祭「フザケんなぁぁぁぁぁ!!(絶叫)」

麻希「………それはともかく。私、いろいろ勝手な解釈入ってるよね。いいのかなぁ…」

作者「そんなの女主にした時点でアウトっしょ。(開き直り)

   あ、読んで下さった方にはお分かりでしょうが陽→陰と進んだ主人公って事になってます。

   ついでに言っとくとこの時点ではまだ、鬼道衆の一員として龍閃組とは面識なし。

   後に彼等と顔を合わせて、徐々に『消えた過去?』を思い出していく…のではないかと(おい)。

   そもそもいつもの如く続くかどうかも分からないしね〜。

   辛うじて同じ主人公で出すとしても、また仲間との友情ものになる可能性大。

   なんかね〜、外法ってギャグに行き難い分、相手役を一人に絞り難いんだよ。

   憐れ御屋形様、唯一のカップリングだというのにラブラブの可能性殆どなし!!(大笑)」

麻希「あ、九角くんがこっちに…」

作者「ではさらばだ!!(脱兎)」

麻希「……………(溜息)」

風祭「待てコラ、俺はまだ納得いかねェ────────ッ!!」 

                 取り敢えず終。







あううううう〜何やってんだ私〜〜〜〜(泣)。
なんか全然うまく纏まらないというか、言いたい事が書けなかったというか。
自分でも呆れるくらいムリヤリな展開にげっそり。
ここまでいろいろな部分が納得できなかったSSは初めてだよ。
基本背景が重いだけにマジで難しいです外法帖…。