【紅】 「────……」 鬱蒼とした森を抜けた途端、目の前が紅に染まり。 九角天戒は思わず息を呑んだ。 そこにあるのは圧倒的なまでに美しい…夕日。 草も。木も。遠く眼下に広がる江戸の街も。何もかもが紅く染まっている。 ───そして、その丘の頂きに静かに腰を降ろしていた少女も例外ではなかった。
その本人に声を掛けられ、我に返る。 ここで九角の事をそのように呼ぶ人物など他にはいない。 敢えて気配を絶って近寄った訳ではないが、こうも簡単に気付かれるとは武道を嗜む者…それもかなりの腕を自負する者としては少々複雑な気分である。 尤もこの少女──緋勇麻希に限ってはそのような事で驚く事自体、無意味か。 後ろで無造作に結わえられた漆黒の髪。 実年齢は九角と同じかひとつ下くらいの筈だが、童顔と細身の身体のせいでずっと幼く見える。 ごく普通の街娘にしか見えない彼女が、剣と拳の差こそあれ実は九角に匹敵する程の武道の達人だと誰が想像できるだろう。 彼女にしてみれば微かな気配を感じる事、空気の流れを読む事はそれこそ息をするのと同義なのだ。 「どうしたの?」 腰を降ろしたままこちらを振り返った麻希が、その場に立ち尽したままの九角にきょとんとした瞳を向ける。 「いや…なんでもない。───隣は空いているか?」 「あ、うん。どうぞ!」 ぱぁっと少女の顔に満面の笑みが浮かぶ。 それに頷き、九角は彼女の傍まで歩み寄ると腰を降ろした。 柔らかな草のお陰か、思っていたよりも座り心地がいい。 「………凄いよ、ね。」 隣に座る少女が溜息まじりに呟く。 目の前の夕日を指しての言葉だろう。見れば麻希の視線は真っ直ぐに前方を向いている。 確かにこれ程見事な夕日はいくらここが山奥とはいえ、なかなか目にするものではない。 天候は勿論、気温や湿度、その他いろいろなものが複雑に噛み合ってこのような現象が起きるのだと九角も聞いた覚えがある。 「そうだな…」 「こうしていると…本当に私はちっぽけな存在だなって思うもん。」 「それは俺も同じだろう。」 「うん。だから私達、《人間》なんだよね。」 「───ああ。」
その男は自らを《神》としようとしたのだ。 それを死闘の末に阻んだのは他でもない───九角達、《人間》である。 どういう星の巡りが働いたかまでは分からない。 星の巡りなどで自分の運命を決められるなど冗談ではない。 もし。己の護りたいものを失うのが運命なのだとしたら、その運命をこそ変えてやる。 九角にはそれだけの意志と力がある。 しかしこの緋勇麻希という少女の存在があったからこそ、本来敵対していた筈の鬼道衆と龍閃組が手を結び。 結果、皆が己の護りたいものを護る事ができたのも事実であった。 そして…あの瞬間。 邪龍が消滅し、最期の力をもって麻希を亡き者にしようと柳生が彼女に躍り掛かったその時。 あまりの眩しさに霞む視界の中で、九角は確かに見た。 黄金の龍が…《龍脈》が彼女の小さな身体に吸い込まれていくのを。 まるでそれが当たり前のように。器に水が満たされるように。 ───柳生ではない。 彼女こそ…緋勇麻希こそが《龍脈》を統べる資格を持つ者だという事が───分かった。 もし彼女が真に望めば、それこそ地震だろうと洪水だろうと自在に操れるのだろう。 だが。 彼女は間違いなく《人間》である。《人間》である事を望んでいる。 それならば彼女は永遠に《人間》なのだ。 彼女に出会って一年。共に過ごしたのは一年に過ぎないが、断言できる。 麻希はそういう人物だった。
「…あの男か…」 いつもへらへらと麻希に笑い掛けていた人物を思い出し、九角は我知らず眉を顰めた。 仲間として信頼でき、神通力の腕も立つが、女に対する見境のなさは少々いただけないものがあった們天丸。 よってどう贔屓目に見てもそういう類の駆け引きに慣れているようには見えない彼女の身を思うと、少なからずあの男は九角の頭痛の種であった。 だが当の麻希は彼の下心にも全く気付く様子もなく、楽しく友達付き合いをしていたようである。 そうなると們天丸としても下手に手を出す訳にもいかなかったらしく、桔梗などに言わせるとそれもひとつの女の才能という事らしいが。 尤も桔梗にすれば九角天戒ともあろう男がひとりの小娘に対してそこまで気に掛ける事自体が面白かったようで、遠回しにからかわれたのも一度や二度ではなかった。
「…ああ。」 そう。們天丸だけではない。 あの闘いが終わり…多くの者が、この鬼哭村から出て行った。 鬼道衆も解散した。 行く処のない下忍などは慣れない農作業に励み出したが、慣れないなりに彼等はよくやってくれている。 その性質上破壊する事の多い任務に携わっていた者達だが、己の手で何かを生み出すという行為に喜びを見出した者も多く、出だしはまずまずと言える。 だが、九角や麻希にとっては今まで身近にいた人物がいないという違和感は当分拭えないだろう。 ちくりと九角の胸の内に何かが刺さる。
「べ、別に毎日澳くんと喧嘩してた訳じゃないもん!」 「俺は澳継とは言ってないがな。…少なくとも二日に一度は喧嘩していたと思うが俺の記憶違いだったか。」 「う…どうせ私はじゃじゃ馬ですよーだ!」 頬を膨らませてぷいと横を向く少女。 九角はそれに小さく苦笑を浮かべた。 何かというと彼女をじゃじゃ馬呼ばわりし、突っ掛かって行った風祭。 そしてそれに逐一反応を返した麻希。 ある意味鬼哭村の名物であったそれは傍から見れば仔猫がじゃれ合っているようにしか見えなかったが、本人達はその都度大真面目だったらしい。 実際二人の闘いは己の拳と脚を使った本格的なものになる事も多かった。 なまじ技の系統が表裏のものと言える程近いだけに、引き分けとなるのが殆どだったか。 ───否。彼女は恐らく、引き分けになるように無意識に己を制御していたのだ。 麻希は純粋に武道家として風祭と手合わせする事を楽しんでいたが、力によって相手を従えようとは決してしない。 そしてそれが判らない風祭ではない。 だからこそ、あんなにも麻希に拘った。 彼女の真の実力に追い付こうと必死になった。 それが素直ではないあの少年の、彼女に対する最大の愛情表現だったのだろう。 ───より己の技を磨き、それを伝えるべく後継者を捜す。 突然そう宣言して風祭がこの村を出て行った前夜。 九角の寝間を訪れ、「あいつを頼みます」と頭を下げた少年がいた事をこの少女は知らない。 們天丸や風祭だけではない。 幾人もの男が麻希に惹かれ────そして彼女に別れを告げた。 己の信じる道を行く為に。
「なに?」 麻希の思わぬ言葉に、九角は目を見開いた。 夕日に照らされた彼女の顔にはいつの間にか悪戯っ子のような表情が浮かんでいる。 「───天戒様はあれで繊細なところがおありだから。あんたがしっかりついてて天戒様を護っておくれ…って。」 「……………」 「同じ事を九桐くんにも言われたよ。あ、実は結構そそっかしいとも言ってたっけ。」 「…………………」 どうやらかつての側近達は揃いも揃って余計な事をこの少女に吹き込んでくれたらしい。 確かにあの二人は幼い頃から共に過ごしてきただけに、九角の事を知り尽くしているとも言えるだろう。 今でこそ九角家当主として村の皆の全面的な信頼を受けているが、九角とて最初から完璧な人間だった訳ではない。 幼さゆえの失敗談がまるでなかった訳ではなかった。 ついでに言うと他にも何か吹き込まれている可能性も多分にある。 …これは思わぬところで形勢逆転といったところか。 桔梗達の心遣いは嬉しいのだが────。
こてん、と九角の肩に少女の頭が寄り掛かった。 「…麻?」 「………やっぱり、寂しいよ。皆凄くいい人。皆に逢えて本当に良かった。」 「…そうか。」 「でも、ね。皆が決めた事だから。寂しいってだけで私に皆を止める権利はないから。皆には、自分の選んだ道を歩いて貰いたい。後悔して欲しくない。皆大好きだから。」 「…そうだな。」 少女の言葉に九角は静かに頷いた。 ───先程胸に刺さったものが何か、ようやく判った。
「え?」 幾分調子の異なる九角の声に、麻希が弾かれたように顔を上げる。 戸惑いを見せる瞳を正面から見返しながら九角は言葉を続けた。
圧倒的な紅に染まった景色を見て息を呑んだ。 だがそれはその景色の美しさだけのせいではない。 木々と同じように夕日に紅く染められた麻希。 それは周りの景色と同化するようで。 このまま消えて失くなってしまいそうで。 ───同時に、真紅の血に染まる彼女を連想させた。 九角家と徳川の血塗られた過去は、柳生との闘いの終わった今でも消えはしない。 例え弱体化した幕府を直接この手で倒す必要がなくなっても。 幕府に正式に認められた訳ではないこの村を…村人を護る為には、九角はこれからも闘い続ける必要があるだろう。 それは穢れなき魂を有する少女が進むべき道とは到底思えなかった。 彼女には陽(ひかり)の道こそ、相応しいのだ。 その権利が彼女にはある。
続けて言葉を紡ごうとしたその刹那。 微かな花の香りが九角の鼻腔を掠り。 ───柔らかなものが、唇に押しつけられた。
やがて九角の眼前に現れたのは地面に膝立ちした少女の、強い意志を秘めた曇りのない瞳。 「…言ったよね? 誰にも他人の選んだ道を止める権利はない。皆、自分の選んだ道を歩いていいの。進む『べき』道なんてないんだから。」 「…麻。」
こういう娘だったのだ、この緋勇麻希という人物は。 決して力に頼る訳ではない。 己の運命をもその意志によって変えようとする、それが彼女だった。 そもそも九角自身、運命とやらに振り回される事なく生きようと常々考えていたのだ。 なのに彼女にできない筈がない。 あの日、父の墓前で彼女は九角と共に生きると宣言した。 今更何を疑う必要があろうか。
夕日に惑わされたなどと言い訳するつもりもないが、九角としては自嘲するしかない。 これでは九桐にそそっかしいと言われても仕方ないだろう。 ひとつ息を吐くと地面に座ったまま腕を伸ばし、麻希を己の胸に抱き寄せる。 「こ、九角くん…ッ!?」 麻希は今になって先程の自分の行為が恥ずかしくなったらしく。 顔を紅くしてほんの少し緊張を走らせたが、それでも九角を拒む事なくすんなりと腕の中に納まった。 それと同時に花の香りが舞う。
だが、この少女に出逢えた事に心より感謝するのは悪くない。 この少女がいたからこそ。 九角は《鬼》にならずに…《人間》であり続ける事ができた。 ───真に人を愛するという気持ちを知る事ができた。
「何だ?」 「私、夕日を見るのが好きになったのって、一年前くらいからなんだよ。」 「……?」 「夕日って…九角くんみたいだなって。」 「…俺か?」 「うん。最初はその綺麗な髪の色と同じだと思ったんだ。でも凄く暖かくて、皆を見護ってて、それでいて目が離せないくらい強い光に惹きつけられる感じがそっくりなんだなって気付いたの。夕日を見てると九角くんと一緒にいるみたいで何だか安心できた。」 「それは…光栄だな。」 「でも、ね。やっぱり『本物』と一緒が一番安心できる…」
その言葉に九角は笑みを浮かべ、座っていた地面から立ち上がると少女をひょいと抱え上げた。
「軽いものだ、気にするな。姫に褒めて頂いた礼だ、屋敷…いっそ寝間までこうして運んでやろう。」 「ね…ッ!? ま、待ってよ九角くん!! そうだ私、夕餉の支度が…ッ」 「天戒。」 「は?」 「お前が俺を呼ぶのに気を遣う必要はない。天戒と呼んで貰えると有難い。」 「いやだから今問題なのはそうじゃなくて!!」 「夕餉まで少々時間があろう。たまには食前の運動もいいものだ。」 「う、嘘ぉ─────!!」
そんな二人を見護るようにして、自然の長たる火の神は徐々に山裾へとその姿を消していった。
しかし、そこには確かに二人の人間の幸せがあるのだろう────。
麻希「えーと。ここまで読んで下さった皆さん、有難うございました。 外法帖突発女主人公の緋勇麻希です。因みに『まき』ではなく『あさき』と読みます。 よって九角くんは私を『あさ』と呼んでたのでした。澳くんについては…黙秘です(爆)。」 作者「そんな訳で、初書き外法SSは九角×女主ゲロ甘話となりました────!! ふふふ…チクショウ、やっちまったぜ!!(ヤケ)」 麻希「…なんでそんなに『はいてんしょん』なの?」 作者「……お前こそ江戸時代の人間のくせに何故そんな単語知ってるんだよ。」 麻希「十郎太くんに教わった。というか、単に誰かさんの語彙が少ないだけなんじゃ…」 作者「(無視)………まぁそれはさて置き。自分でも驚いてるんだよ。 いずれ外法でSSを書きたいなーとは言ってたけど、正直書けるとは思ってなかったから。 なんかね〜時代背景も台詞の言い回しも全然自信なかったし。 何よりキャラ的に剣風帖程嵌るとは思えなかったんだよね。(正直者) それがどうよ。1周目クリアしたその日にコレを書き始め、2日でほぼ完成しちまったい。 しかも京梧じゃなくて九角だよ!! ゲロ甘だよ!! 何があった自分!!」 麻希「九角くんがカッコイイからでしょ?(あっさり)」 作者「さり気なく惚気やがったなこいつ…………ううう〜そうなんだよ〜〜〜。(敗北) あまりチェック入れてなかっただけに【陰】での奴のいい人っぷりに目から鱗状態。 九角ラブ!!というより『この人には幸せになって欲しい』という感じ?」 麻希「それで睡眠時間も削って勢いに任せたんだね…」 作者「他にもお気に入りはいたんだけどね〜。やっぱ本命だった京梧とか、大穴の風祭とか。 要するにたまたま先に浮かんだネタが九角だったというだけなんだけどさ。(おい) わはは、一歩間違えばお前の相手は奴らだったかもな♪」 麻希「………………(何かに気付いたらしい)」 作者「どうせ突発だから続かせるつもりもないしな。私にラブラブ連載は絶対無理。 つか、九角ってギャグができないのがツライんだよ!!(結局そこか) ちッ…いっそもっと性格を崩してやるか、女主総受けにするんだった───」 九角「鬼道・変生ッ!!」 麻希「九角くん…そこまでしなくても…」 九角「なに、今後ふざけた考えをせぬよう少々灸を据えただけだ。遅いから心配したぞ。」 麻希「えへへ…ありがと。」 九角「では行くか。それと、『天戒』だと言っただろう?」 麻希「(照れ)…うん。行こ、天戒!」 こうして仲良く二つの影が去り、後には目を回した蛙が残されたのだった。劇終。 ひ〜やっぱり難しいっすよ外法帖ネタ。 |