【1997年6月】 京一は剣道部、柔道部、空手部が共同で使っている武道場を気付かれないようにそっと抜け出した。 こういう時、人がごちゃごちゃといる合同練習は有り難いと思う。 真っ青な空と明るい日差しが目に染みる。今日は暑い。先程の運動もあって、顔から、首筋から、汗が流れ出た。 ちょうど弓道場との中間にある古びた水飲み場で勢い良く頭に水をかぶる。 と、拭くものを持っていない事に気付いたが、仕方がない。 軽く頭を振って雫を飛ばすとそのうち乾くだろうと歩き出す。 その時、少し離れた所から聞き覚えのある声がした──────。 「それじゃ15分間休憩!解散!」 土曜日の午後、新宿真神学園の弓道場に部長の良く通る声が響く。張り詰めていた空気が緩み、部員達はそれぞれ体を休める為に散らばった。 今年2年生になり、次期部長候補との噂も高い桜井小蒔も隅に置いてあった自分のタオルを取って道場のすぐ外の水飲み場に向かった。 蛇口を捻り、汗を流すと同時に気を引き締める為に冷たい水で顔を洗う。 「桜井センパイ!」 「うわッ、びっくりした!」 突然背後から声を掛けられて小蒔は一瞬飛び上がりそうになった。 タオルで顔を拭きながら振り返ると今年弓道部に入ったばかりの女子生徒が二人、真剣な眼差しで並んでいる。 「えっと、松永サンと山本サンだっけ、どうしたの?」 「あのッ、お願いがあるんです!」 「何?ボクに出来ることなら協力するよ。」 根は世話好きで面倒見のいい小蒔である。 本人は気付いてないが、ボーイッシュでさっぱりした性格もあってか、早くも下級生に密かに人気がある。 取り敢えず、人目を避けて他の部員達と少し離れた場所に移動した。 どちらかというと真面目で大人しいタイプであろう二人はまだ迷っていたようだが、やがて決心したように一人が切り出した。 「あの…センパイ、確か、2−Bの蓬莱寺センパイと仲がいいですよね!?あの人の事、何でもいいですから教えてくれませんか!?」 「………はぁ!?」 予想外の言葉に小蒔は思わず聞き返す。 「…って京一!?あの馬鹿の事!?」 真神の問題児、蓬莱寺京一。去年、入学して間もなく、ひょんな事から知り合った。 いつも小蒔を男扱いし、その度に懲りずに鉄拳を食らっている、仲のいい友人というより喧嘩友達という存在である。遅刻、早退、サボりは当たり前、喧嘩は日常、成績は当然のごとく赤点。そして無類の女好き。本人曰く、付き合った女はナンパを含め、星の数程いるらしいが、きっとそれ以上に振られているに違いない。 「すっごくカッコイイじゃないですかぁ!」 「……うーん……」 だが京一は何故か女の子、特に下級生に人気があるようだ。そういえば新聞部の発行する真神新聞は、京一の特集をする度に売上が上がると友人である遠野杏子が言っていた気がする。もっとも、その内容は京一にとっていい事ばかりではない為、本人はネタになる事を嫌がっているのだが、そこがまた人気の原因になっているらしい。この子達も隠れファンという訳か。 確かに喧嘩は強い。顔は…悪くないとは思うが、普段の京一を知る小蒔には何故そんなにモテるのか、全く理解不能である。 ……例え、付き合う事になったとしても、すぐ破局になるのは目に見えているのだから。 人間的に見たら、京一は決して悪い奴ではない。そうでなければ腐れ縁とはいえ友達などやっていない。それは葵や醍醐も同じだろう。 だけどやはり。 「騙されちゃだめだよ、馬鹿で喧嘩っ早くて女好きでどうッしようもない奴なんだから。」 夢見る少女達が毒牙に掛かる前にと正直な意見を言った途端。 「おいおい、人の事何だと思ってんだ。」 再び後ろから声を挟まれて、小蒔は今度は本気で飛び上がった。よく知った声だったからである。
「きゃぁッ、蓬莱寺センパイ!!」 「うそッ!?」 道場の陰から出てきた京一に驚きの三重奏が掛けられる。 「俺は見ての通り、貴重な時間を潰して真面目に部活に出てたの。そこにお前達が来たんだろ。」 ずっと会話を聞いていたくせに京一は右手に持った木刀で自分の肩を軽く叩きながら飄々と言ってのける。 防具は外しているが剣道着を着ているのだから説得力がない事はない。 しかし半日しか授業のない土曜だというのに何故、サボり魔である京一が部活などに出る気になったのか。 答えは簡単、剣道部の顧問は2年生の数学の担当教師であり、大会が近い事もあって、次期部長と呼ばれる実力がありながら全く部活に出ようとしない京一は今日もサボったら無条件で『1』にすると冗談交じりに脅されたのである。それでなくても赤点常習犯の京一は横暴だと文句を言いながらも抗う術はない。 かといって最初から最後までずっと出ると約束をした覚えはない、という訳だ。 「どうせサボってたんじゃないの?」 小蒔の指摘(図星)を敢えて無視し京一は二人の初対面の少女に親しげに話し掛けた。 どちらも結構可愛い。年上のオネーサマと違った1年生の初々しさもいいか、などと思う。 「俺に興味があるって?嬉しいねェ、じゃ、電話番号と……」 ばこッ。 「人を無視していきなり口説くなッ!」 「いでッ何すんだ小蒔ッ!!いくら同じ男として、俺の方がモテるのが悔しいからって邪魔するなよッ!!」 ばきぼこッ。 容赦ない拳が京一を地面に沈める。こいつは俺をサンドバッグとでも思っているかもしれないと、半ば本気で己の身を心配してしまう。 しかし喧嘩の達人なら避ければいいようなものだが、なんだかんだ言っていつも小蒔やアン子にいいように殴られているのは多少自分が悪いとの自覚があるからかもしれない。 この間、二人の少女は完全にあっけに取られていたが、京一が再び口を開く前に弓道場の中から部長が集合をかける声が響いた。 弓道部の休憩時間も終わりらしい。 その声に少女達は我に返り、それじゃ、と会釈すると、慌てて走って行ってしまった。 「あッ、今度から俺のとこに直接来てくれよな!!いつでもOKだぜ!!」 地面に転がりながらもしっかり二人の背中に声を掛ける辺り、京一らしい。 「全く…こんな奴のどこがいいんだろ。じゃね、ボクも行かなきゃ。あんまり真神の品格を下げないようにしなよ、京一。」 小蒔は出来の悪い弟を持った姉のように溜息をつきながら自分も道場の入り口に向かう。 (ん……?) その様子に京一は何か違和感を感じた。つい、いつもの癖で軽口を叩く。 「…………何だお前、もしかしてヤキモチ妬いてんのか?」 「…じょーだんッッ!!ほら、京一も何時までもサボってないで練習に出なよッ!」 ほんの1秒にも満たない沈黙の後、これ以上ないくらいキッパリと否定すると、小蒔はふと何かに気付いたように京一を見た。そして手に持っていた自分のタオルを投げてよこす。 「馬鹿は大丈夫とは思うけど夏風邪、流行ってるんだって。お気に入りなんだからちゃんと明日…は休みか、月曜には洗って返してよね!!」
そのまま何事もなかったように走って去って行く小蒔を見送り、一人残された京一は呟いた。 赤いスポーツタオルでまだ雫の落ちていた赤茶色の頭をごしごしとかき混ぜる。 タオルから、微かにいい香りがした。 京一は僅かに苦笑すると、体育館裏のお気に入りの木に向かって歩き出した。 仕方ねェ、あと少ししたら部活に戻ってやるかと思いながら。
本当にこれのドコが京一×小蒔なんだって感じですな。 |