【1996年4月】 「参ったなぁ…こんなに遅くなるとは思わなかったんだけど。」 腕時計を覗きこんで桜井小蒔はつい呟いてしまった。 時計の文字盤はすでに午後10時を指している。 いつも下校時には人通りの多いこの通学路も、繁華街と少し離れていることもあって今は人影すら見えない。 もっとも、東京のど真ん中でもあるので真っ暗というわけではなく、街灯やガソリンスタンドなどの明かりで歩くには全く不自由しない。かといって、ほんの2週間前に高校生になったばかりの女の子が一人でふらふらするには土地柄的にも少々問題のある時間であった。 「でも、やっぱ試合に出るからには勝たないとね、うん。」 今日、弓道部の部長から話があって、再来週行われる荒川区のゆきみヶ原高校との練習試合に小蒔は1年生の中で唯一選手として出場する事になった。 ゆきみヶ原には幼い頃から共に弓道を学んできた友人もいる。久しぶりに彼女と競う事を考えるとなんだか落ち着かなくて部活が終わった後も一人残って練習を続けてしまい、気が付いたらこんな時間になっていたのである。 「お腹すいた……」 ふと見るとちょっと道を入った所にコンビニがあった。 家までとても空腹を我慢できそうにない(実は部活が始まる前にしっかり菓子パンを2コ、食べているのだが)。 小蒔は肩に担いだ弓と矢筒を抱えなおし、コンビニに向かって歩き出した。
「誰か─────ッ!!!」 悲鳴と共にガラスの割れる派手な音が道路に響く。 そして、目の前のコンビニからフルフェイスのヘルメットをかぶり、黒のスポーツバッグを抱えた男が凄い勢いで飛び出して来た。そのままこちらの方に走って来る。 (コンビニ強盗だ!) 小蒔はとっさに理解し、行動に移した。 つまり普通の女子高生なら脅えまくって必死で男を避けようとするのだろうが、逆に、男がすれ違う瞬間、足払いをかけたのである。 はっきり言って先の事は考えてない。持って生まれた正義感と抜群の運動神経が勝手に働いたという方が近いだろう。 案の定、男は予想外の出来事に対応できず、妙な声をあげながら頭から地面に突っ込んだ。 だがヘルメットのせいで殆どダメージは無い。 「てめぇッ!!」 男は足を縺れさせながら起き上がると、そのまま逃げればいいものを、スポーツバッグを地面に放り出したまま、逆上して小蒔に殴り掛かってきた。 「うわッ…」 間一髪、身体ごと拳を避ける。男はたかが女子高生に邪魔されたのがよほど頭にきたのか、ズボンのポケットから折りたたみ式のナイフ─これを使って店員を脅したのだろう─を取り出すと、なおも小蒔に向かってきた。 (やばい─────) 銃でないのが救いといえば救いだが、いくら運動神経が良くても刃物を持った大の男相手に素手で立ち向かう事などできはしない。 たまたま家で手入れをしようと持ちかえった弓も、この至近距離では役に立たない。大体、矢をつがえる余裕もありはしない。 民家の壁際に追い詰められ、思わず目を瞑りかけた瞬間。 「ぐわぁぁぁぁぁぁぁッ」 男は苦悶の声をあげてナイフを地面に落とした。右肩を左手で押さえ、片膝を着く。 「───蓬莱寺京一、見参ッ!!」 小蒔は突然の展開に目を丸くした。 見ると、男の後ろに何時に間に来たのか、真神の制服を着た赤茶色の髪の少年が立っていた。おそらく1年生だろう。年の割に精悍な顔立ちに悪戯っ子のような笑みを浮かべている。 そして右手にはいかにも使い込まれた木刀を持っていた。これで一撃したのか。 遠くの方からようやくパトカーのサイレンが近づいてきた。何事かと、野次馬も遠巻きに集まってくる。 「どうした、俺が相手になってやるぜ!」 京一と名乗った少年(別に名乗ってくれと頼んだ覚えはないが)は木刀を男に突きつけ、なおも挑発した。 そして小蒔に目配せする。この間に逃げろと言いたいらしい。 しかし。男はその僅かな隙を見逃さず、思った以上に早く立ち直ると、二人の予想外の方向へ走り出した。
京一は慌てて後を追いかけたが、僅かに遅かった。 男は50mほど離れた所でたまたま居合わせた中年女性を羽交い締めにする。 「近づくなッ!近づいたらこいつを殺す!!」 サイレンを聞いて自棄になったのだろう。 右肩を庇いつつ、左手で予備に持っていたらしいナイフを上着の内ポケットから取り出して女性の首筋に添える。甲高い悲鳴があがった。 男はその体制のまま今度は後ろを取られないように壁際まで下がる。 「チッ……手加減するんじゃなかったぜ……」 京一は呟いた。 珍しく気が向いて剣道部の部活に顔を出した後(実は入部してからまともに出たのはこれが初めてであり、すでに幽霊部員となりつつある)、部の友人とラーメンを食べに行き、更にゲーセンの格ゲーに燃えてしまい、100円玉が無くなって気が付いたらこんな時間になっていた。 そして偶然、どう考えても善人に見えない男が真神の制服の少女に襲い掛かっている場面に出くわし、助けに入ったのだが。下手に気絶させたら倒れた拍子にこの子にも怪我をさせてしまうかも知れないと考え、手加減したのが仇になった。 野次馬はあてにならない。パトカーが着いたところで、状況はそう変わらないだろう。京一は木刀を構えたまま、どう切り出すか考えを巡らす。 ヘルメット越しに見える男の目は既に正気を失っており、先ほど自分を不意打ちした京一の動きに敏感になっている。 こういう男は自棄になると躊躇いもなく人質を傷つける。1対1なら例え素手でも勝つ自信はあるのだが、これではむやみに動けない。 その時。 「ヤァッ」 鋭い掛け声と共に、背後から1本の矢が飛来し、ナイフを持った男の手の甲に突き刺さった。 「ぎゃぁぁぁぁぁッッ!?」 またしても予想外の事に、男は思わず女性を突き放し、矢の刺さった手を庇う。 そのチャンスを京一が見過ごす筈がない。 「でやぁぁッ!!」 瞬間、男の元に走り寄り、今度は渾身の力を込めて木刀を振り下ろす。 ヘルメットが砕け散り、男は呆気なく白目をむいて気絶した。 何時の間にこれだけ集まったのか、周りの野次馬から歓声が上がる。 と、今頃になってパトカーが到着したらしく、警官が2人こちらに向かってくるのが見えた。 いちいち事情を説明するのも面倒だ。京一はここはトンズラする事に決めた。 この時間にうろうろしてると余計な事まで根堀り葉堀り訊かれるに違いない。 素早く野次馬を掻き分け、人通りの少ない方へ走り出す。 ふと気が付くと、先程の少女が隣を走っていた。きっとこの子も同じ事を思ったのだろう。京一は脚力にも自信があったのだが、このショートカットのいかにも活発そうな少女は──発展途上中の体型からいってたぶん1年生だろう、難なく京一のスピードについて来て、内心驚いた。 抱えた弓から、さっきの矢は彼女の放ったものだと分かる。 あの距離で正確に射抜く腕は確かだ。しかも、ちゃんと加減していた。本気でやっていたら手を貫通するだけの威力があるだろう。今はまだ完全に目覚めてはいないようだが彼女の持つ、潜在的な清廉でいて力強い氣がそれを証明していた。 子供の頃からの修行で(師匠と大喧嘩してからはサボりがちだが)氣を読む技も身に付けた京一だが、ここまでの氣をもつ奴には、さんざん絡んでくるチンピラや番長もどきも含め殆どお目にかかった事がない。 自然に顔が緩む。退屈そうな学校生活も面白くなるかもしれない。 幾つかの角を曲がり、騒ぎが完全に聞こえなくなった辺りで走るのをやめ、一息つく。 「もう、平気だろ。」 「はぁはぁ…、そう、だね。」 荷物もあって流石にバテたらしい。少女は少しの間肩で息をしていたが、落ち着くと京一を見て笑いかけた。 「さっきはアリガトッ!ボク、1−Aの桜井小蒔、よろしくねッ」 「俺はD組の蓬莱寺京一…ってさっき名乗ったっけ、まぁいいか。こっちこそ助かったぜ、よろしくなッ」 ようやく自己紹介を済ませ、お互いなんだか可笑しくなって笑い出す。 「そういえば聞いた事がある、D組にいつも木刀を持ってて、喧嘩とナンパばっかりしている変わり者の男子がいるって。キミがそうかぁ。」 にこにこと笑っているので全く悪気はないようだが、面と向かって言われるとすでに真神一のイイ男を自称している京一としてはやはり面白くない。 すかさず京一はにやりと笑ってやり返した。 「けど、A組にはもっと変わりモンがいるみたいじゃねーか。」 「え、誰?」 「男なのに女装してる奴。」 「……………………誰のコトかなぁ?」 「だってお前、オトコだろ?よッ、美少年!」 「誰がオトコだッ!!」 「だってムネ、俺の方があるじゃん。」
それ以来、二人はお互い名前で呼び合う仲になる。 ただし男女の間というより気の合う喧嘩友達として、である。 その後、小蒔が親友の美里葵を紹介し(といっても友人としてであって、女グセの悪い京一は絶対手を出すなとの条件付きである)、醍醐雄矢が転校してきて京一と何やらあった後、この一種の仲良しグループのリーダー的な存在になった。 そして約2年後、3年に進級し同じクラスになった彼らの前に緋勇龍麻という転校生が現れる。 同時に彼らは真の意味でかけがいのない仲間となり、前世から続く己の運命を知るのだが、それはまた別の話である─────────。 過去を勝手に作るなって感じですね(苦笑)。 |